早川寿美子 園長便り

2010年度 バックナンバー

3月 ラジオを聴きながら思ったこと

2011年3月1日発行「おたより」第417号より

 朝、ラジオを聴くともなしに聴いていたら、怒ると心臓に負担が…という言葉が飛び込んで来た。イライラしたり、怒りで興奮したりすると、心臓への負担が急に高くなることを、器械で計った数字をあげて話していた。よく「キレル」若者たちのことが話題になるが、年寄りの場合、文字通り心筋がキレて、命とりになるかもしれないということのようであった。その医師は、カッとした時は、深呼吸を三回することをお勧めしている、と話していた。「私の場合、十回くらい、深くゆっくり深呼吸しますよ」と。世の中ハラの立つことは多いし、イライラさせられる人間が増えていると思うのは、こちらが年を取った証拠なのかもしれないが、イライラ、プチッ!って何故どんな時おこるのかと、どうも理路整然と語れないようなところがあってやっかいである。しかし人との関わりにおいて起こる感情であり、幼い時は母親、次に家族、友だち、先生、地域や職場の人、と人間関係が広がっていくその関わりの中で起こる出来事であることは、間違いないであろう。
 では何故それがおこるのかが難しい。下に赤ちゃんが生まれるという時、上の子が2~3歳の頃だと、何となくイライラする様子がみられることや、家族間で変化がある時、幼児が急に感情的に不安定な様子が見られることなど考えると、新たな環境の変化から自分が認めてもらえなくなるのではないか、という不安が起きている状態と言えそうである。はっきりしないけれど、何かいつもと違うという感じがイラだちを引き起こしているのかもしれない…。
そんなことを思っていたら、ふと、先日あるおもちゃの専門家が話していたことを思い出した。彼女はおもちゃの専門家として、大勢のお母さんたちから、おもちゃの選び方について相談を受けて来た。その中で、とても多くてとても困る質問がある。それは「子どもが一人で遊べるおもちゃは、どんなおもちゃですか」というもので、つまり、自分が忙しい時、おとなしく遊ばせてくれる物が欲しいということであろう。しかし、おもちゃの役割はそうではない。彼女はまず、お母さんに一緒にそのおもちゃと遊んで欲しい、と。そして、子どもが一人で遊び始めたら、離れたところにいて何かしていても、子どもがどんなふうに遊んでいるか気にかけていて欲しい。子どもがチラリとお母さんを見た時、認めて欲しい。スゴイね、高く積めたね、きれいな列になったね、などの言葉かけや、ニッコリうなずいてやれることが、子どもの自己肯定感を育てるのだということを伝えているという。
 おもちゃは楽しい体験を与え、達成感、ワクワク感と共に、忍耐力や悔しさも体験させてくれること、大人がともすれば○○しなさい、などと一方通行で待てないことが多いけれど、良いおもちゃは、生き生きとした感覚の世界を広げてくれ、子どもが繰り返しおもちゃに働きかけ、新しい発見をするまで関わってくれる要素を持っている、などの話を聞くうちに、おもちゃとどう関わっていくかも、それが自己肯定感を育てることに大きく関与するのだと思った次第である。
 3月は年長さんが卒園し、新しい場所で、また新たな友だちと出会い、人間関係を広げ豊かにしていくことであろう。親もまた、もっとお姉ちゃん、お兄ちゃんになってもらいたい、など思って、つい朝から早く早くと急き立てることなく、深呼吸を10回くらいしながら、年度末を過ごしたいものである。何しろ、先ほどのラジオの医師によると、一怒百老、一喜百寿という言葉もあるそうなのだから。

節分

2011年2月1日発行「おたより」第416号より

 もうすぐ節分である。我園では、節分の打ち合わせとバレンタインデーの義理チョコ?友チョコ?の話が進んでいて、いかにも現代日本の風景だとほほえましい気がする。もともと節分は、外国から入って宮中で穢れをはらうというような意味で行われていたもので、鬼と結びついたのは、随分後のことと言われているし、東北のある地方では、「鬼は内」という豆まきもあるそうな。行事というのは、時代と所でいろいろ変わるものでもあるだろう。
 話は別になるが、先日、我園で恒例のおもちつきをしたが、父母の方や地域の方々が多勢参加して下さり、とても楽しい会になった。玄米もちのいつもながら本当においしいこと…。ところで、しおんではなぜ十二月におもちつきをしないで一月なんですか?と父母の方に聞かれたと言う。十二月はクリスマスという大きな行事があって大変、正月過ぎてからゆっくり地域の方々も含めて楽しみたいということもあるけれど、もともと日本の伝統行事は旧暦によることが多く(ちなみに、今年の大みそかは二月二日である)一月に入ってからの方が、「伝統行事」に近いのではないかとも思っている。
 さて、節分に話を戻そう。昔、私が一年ほど「自然食」の勉強をさせていただいた、故榊原先生は、節分から先と前の食事を分けて、節分を過ぎたら、身体から不用なものをどんどん出す食事にするのよ、とよくおっしゃっていた。先生は昔の温州みかんやリンゴはもっと酸っぱかったのよ、お正月に飾るおもちの上のだいだいは、先祖代々という意味もあるけれど、酸を取って、身体の毒素を出すという知恵なのよ、と何度も言われていたのを思い出す。節分という行事は、先生の言われる食におけるデトックス効果の狙いと、何やら似ているような気もする。一年間忙しく動き回り、心の贅肉とも言えるものをため込んでしまい、心が晴れない、鬱々とした気持ちを抱え込んで元気が出ない、そのくせやたら他人のことが気になる。こうしてはいられないとあせる、どうせ自分はダメだと落ち込む…等々。重い贅肉を抱えて過ごしている日常から解き放たれる、余分なものを手放してしまうという行事が、つまり、昔宮中で行われていた穢れをはらう、という行事であったのではないかとも思う。
 「鬼は内!」という豆まきも魅力的である。これは昔々その地方で飢饉があった時に、山から鬼が来て助けてくれたという伝説からだそうだが、なかなか面白い風習だと思う。昔話の「びんぼう神と福の神」の話は私の好きな話である。せっかく福の神が幸せを運んで家に住みついてくれようというチャンスに対し、長年貧乏神と一緒に暮らしていると、何やら情がわいて来て、貧乏神を追い出しにくい。むしろ一緒にいる方が気楽だというこの話は、辛いこと、理不尽なことなどをため込んだり、追いだそうとしたりしないで、あるがままを受け入れる、心の風通しを良くするとでもいうのか。日常の様々なことにこだわって、自由さがなくなり、息詰まっていくのではない生き方、日常生活を肯定できる生き方を感じられて好きなのである。
 ともあれ、節分は新しい春を迎える時。豆をまいて伝統を味わい、義理チョコの甘さをかみしめながら、新しい春を楽しみましょう。

人は愛するに足り、真心は信ずるに足る

2011年1月15日発行「おたより」第415号より

 新年あけましておめでとうございます。久しぶりに会った子どもたちも一段と成長したようで、さぞゆったりとしたお正月を楽しまれたように思います。
 私も暮れからお正月は、家族がそれぞれに遊びに出かけたのですが、「犬を連れて温泉にでも行っておいで」と言われながら、犬に風邪でもひかせてはと思って、久しぶりにのんびり一人で家で過ごすことにして、この際、読みたいと思いながら読めなかった本を読もうと何冊か読みました。『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』という中村哲医師と澤地久枝さんの対話のこの本は、前から読みたいと思って買ってあったのですが、一気に読んで感動しました。
 中村氏は1984年から戦争・干ばつに喘いでいるアフガニスタン東部で、医療活動を続けて来たのですが、医療協力だけの限界を痛感して、水不足を何とかしなければと井戸を掘り始めました。気負いのないその語り口、しかし、実に厳しい現実を目の当たりに見る思いがして、寝転んで読んでいた私は思わず正座をして、最後まで読んでいました。
 日本という国が「外交ベタ」だと、マスコミなどでは言われますが、彼は「アメリカの正義」を傲慢と批判し、日本の国際感覚の危うさを憂いています。それは、日本を離れたアフガンの地で、自ら土建屋の「親方」として住民と共に汗を流して来た人の真実であり、日本の政治家は耳を傾けるべきだと思いました。
 この本の中で私は、特にボランティアとして参加している日本の若い人々に関心を持ちました。先日の新聞の中でも「仕事力」という欄で中村医師は自ら汗して働かなければ誰もついてこない、エンジニアだの、オレはこういう技術がある人間だという人は、やって来ても自分の働く場がないって怒って帰ってしまう、というようなことを語られていました。
 砂漠に緑の水路が出来ているという現実こそ、人を動かすものでしょう。現地の人々はそれを認め、復興へ共に希望を持って、共に汗を流しているのです。
 中村医師の支援団体であるNGOの「ペシャワールの会」から、募金活動・ワーカーの現地派遣等がされていますが、対話の中でそのあたりの記述をご紹介します。

澤地:ペシャワール会の現地へボランティアに入ってくるのは、どんな年齢ですか。
中村:ほとんどが二十代半ばですね。
澤地:日本の生活で、何か挫折を経験しているような人ですか。
中村:それがほとんどでしょうね。「青い鳥」を求めてくるとか、そういう……。動機はあえて問わないことにしています。受け入れてもらうために、立派なことをいう人はたくさんいるんですよ。地球環境問題がどうだとか、貧しい人たちがどうとか。ほんとうのところはどうなのか。「追い返したりしないから、言ってみろ」と言ったら、「実は、日本にいて先が見えなくて……」とかね(笑)。それでもいいわけですよ(笑)。若い人も捨てたもんじゃない。社会が悪いのか、個人が悪いのかっていう議論が昔からありますけれども、やはり社会が悪いですね。その状態におけば、彼らはたくましく生きていきますから。

 クリスマスに、私どもは国分一太郎氏の『しなやかさというたからもの』を読んで、共に学び合いました。子ども時代に「あそび」「稼ぎ」「用」があった。こうした自然と共にあったものが、子どもを賢く、健やかに、しなやかにし、生きる力を与えられたという考え方をどう感じるか、「生活感」が希薄になった日常が生みだした閉塞感について考え合いたかったからです。特に幼児は、見て、真似して、体験して、感じて、自らを育てるものです。昔あった生活をそのままなぞるのは無理。では、どのようにしたら?という声が多かったのです。
 このペシャワールでの出来事は、急激な変化を迎えた時代に生きる者として、幼い人を育てる者として、この本は希望を与えられるものでした。
 彼の講演会の時に、一人の青年からの「なぜ、この仕事に?」との問いかけに、中村医師は「やはり運命、定めのようなものを感じます」と答えられたとあります。なるほどと私は思います。生き方、仕事への使命のようなものは、そういうものなのだと思います。どんな仕事でも……。
 今年の初めにこの本と出会えて良かったと思います。「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」、この言葉に励まされながら、この年の歩みを始めたいと思います。

よそおう

2010年12月1日発行「おたより」第414号より

 最近、見学者や実習生に、下里の先生方は何故動きやすいジャージのような服を着たり、エプロンを着けたりしないのですか、と聞かれることが何回かあった。活動的という基準は難しいが、要はスカートをはいたりエプロンを着けなかったりすることが、保育者らしくない、ということらしい。私が保育者になった40~50年前は、子どもはほとんどスモックが遊び着で、通園服というのを着て登園し、保母は事務服のような制服を着ていた。やがて園児と同じような明るい色のスモックとスカートが定番になり、現在は「動きやすい」服装ということで、エプロンにズボン(今はパンツというのか?)姿というのが、制服のようになっている。でも、この姿、本当に見ていて美しい服装なのかしら、と思う。我園では、エプロンは食事の支度をする時など、担当者は子どもと共に身に着けるし、庭仕事や大工仕事などの時は、ジーンズのような作業着に着替えもする。要は、生活の場面に応じた服装に気をつけたいと考えているのである。子どもが見てもわかりやすく、保育者本人も生活の場面に応じた服装をすることは、その場面にふさわしいしぐさや、その作業に対する気持ちの込め方などに影響するのではないかと考えている。
 随分前のことになるが、スウェーデンに行く機会があって、知人の紹介の私立保育園を半日見せていただいた時のことである。社会主義国であって、ほとんどが公立保育園という国にも、少しずつ特徴のあるこうした私立の保育園が設立され始めたという頃であった。そこで見た光景を今でも思い出すのだが、1歳半の男の子が真っ白なコック帽とコックの白衣をつけてパン作りを始めたのである。ときどき、先生は様子を見ていたが、ほとんどはその子一人で計量からこねるのまでやって、ついにそのパンをそのクラスの昼食時に食べるところまでをやってのけたのである。幼いパン屋さんの堂々たる職人技を支えていたのは、先生の巧みな指導と共に、あの真っ白な本物のパン職人の着るような白衣であったのではないかと思ったのであった。
 子どもの目に我々保育者や大人たちはどういう風に見えているのか、私たちはもっと意識しなければならないのではないだろうか。よそおうということは、キチンと生きる、なりたい自分に自分を近づけていく作業のような気がする。服装やしぐさについて、昔は随分うるさく言われたものであるが、本人の生き方の姿勢やコミュニケーションに於いて、重要な意味があったゆえであったのかと思わされている。
 今回の秋まつりに初めて結成された親父バンドの演奏は、本当にカッコ良かった。子どもたちも立ち上がり踊り出し、みんな本当に楽しんだ。腕相撲のお父さんたちは、同時に3~4人の子どもたちを相手に、やっぱりお父さんって強い!!と思わせてくれた。「子どもリヤカー」も時間内にできなかったけれど、お父さんたちが手作りしているところを見た子どもたちは、お父さんってすごい! と思っていた。お母さん方は、売り場でお母さん同士や先生方と和やかで楽しい気分を盛り上げていた。今年の秋まつりはこうして終わった。この秋の一日の出来事が、子どもたちにどのように映っていただろうか。素敵でカッコイイお父さんやお母さんの姿が、おいしい食物や楽しいイベントのあれこれと共に、思い出袋にしまわれているといいな、と思っている。
 子どもたちが世界で一番大切で大好きな人は、お母さん、お父さんです。もっともっと大好きになってもらえるように、子どもたちの前でときどきちょっとイイカッコしてみませんか。クリスマスはそんな特別の季節でもあるのです。

公園の中で

2010年11月1日発行「おたより」第413号より

 このまま冬になるかと思われるような寒さと、ぐずついた天気が続いて11月を迎えました。前日に終日降り続いた雨もあがり、また翌日には台風の影響で再び雨との予報の間の一日がしおんの遠足でした。都立公園を最近は使わせていただいていますが、今回も公園の管理をしている公園協会の方々と、子どもの遊びの仕掛け人である「くじら山プレイパーク」の方々に協力していただいて、とてもダイナミックな活動になりました。2歳の子どもたちもススキのトンネルや、山から転がり下りたり、上がったり、と飽きずに全身を使って遊んでいました。大木につったハンモックやブランコ、縄の登はん棒ならぬ縄のぼり…。昔、ターザンごっこをやった覚えのある方ならすぐ思い浮かべることができるでしょう。子どもたちは本当に楽しそうに遊んでいました。遊びのボランティアの方々には、ベビーカーに我が子をのせて参加している方もおられ、ベテランの方々と共に活動していて、頼もしく思いました。活動歴の長い方が、「公園に大人がこうしていろいろ準備して遊ばせるのは自然じゃないと思うのですが、子どもだけでは遊びが広がらないですよね」と言われていたのが印象的でした。また、いろいろな幼稚園、保育園の子たちが来て一緒に遊ぶけれど、しおんの子たちの遊びはとても活発で自分たちもハッとさせられることがあっておもしろい、先生方の動きも伸びやかで良い、と言って下さいました。普段、森の保育などを通して、戸外で遊ぶ機会の多いことが、こんなところに表れているのかもしれないと思いました。
 先日、ある保護観察官の方とお話する機会がありました。彼は少年院から出て来た子に、「出られて良かったね。これからがんばるんだよ」と言ったら、当然、少年院のような窮屈なところはもう嫌だと思っているだろうと思っていたのに、「少年院に戻りたい」と言われたことにショックを受けたと話されました。そしてその時、彼らにとって「わかりやすい世界」、集団で生きる生物としてとても大切な「わかりやすい世界」がそこ(少年院)にしかなかったのかもれない、ということに気付き、いかに現代はそれが見えにくくなっているかに気がついたというのです。
 悪いことはダメ、良いことはちゃんと評価される、という「見えやすい」世界、我々も幼い人たちとのかかわりの中で、どれだけ意識しているだろうか、と考えさせられました。子どもが一人で生きられる力を育てるのが大人の役目とはいうけれど、現代には、成人しても自立できない人は確実に増えているように思えます。今しっかり考えてみる必要があるでしょう。便利な都会の中に残されている自然環境である、こうした里山や公園でも、その中で走ったり転がったり、大きな樹にふれながら自分なりに工夫して木登りをしたり、という具体的な活動の一つひとつが、足を滑らせれば落ちる、木に登ったら違った世界が見える、また、日が陰ったら寒い、陽のあたるところは気持ち良い、と教えてくれます。こうして体感することが、「わかりやすい世界」につながっていくのではないかと思います。
 テレビで見る果物は、いくら名前を知っていても、その実体を知っていることとは違う、という当たり前のことに気づけないような日常は、子どもたちに見えにくい、わかりにくい世界だということを、私たちは考えてみなければと思ったのです。
 ススキの迷路の中で鬼ごっこをしている子の笑い声、必死に一本のロープにつかまって木に登ろうと何度もトライしている真剣な眼差し、不自由な身体をよくくねらせながらくじら山を下りてくる子の何と自身に満ちて輝いていることだろう。林に張られたハンモックに揺られている子どもたちの笑い声…。私には、林の中に差し込む木漏れ日、土の香りや樹々たちが、どっしりと温かく子どもを守り、まるでこの林全体が子どもたちを育ててくれているように見えました。この光景に不思議な感動を覚え、しばらく立ち尽くしていたのです。

大地の恵みを

2010年10月1日発行「おたより」第412号より

 先日、ラジオを聴いていたら、元永平寺の副典座(てんぞ)だったという方で、現在は親の寺を継いで住職となっておられるという方が話されておりました。典座というのは、寺で食に関わるすべてを行う役職のことだそうです。たまたまその日は仲秋の名月の翌日だったので、月の話が中心でした。その方のお寺では、収穫されたものと共に、おだんごを高く盛ったものを、月の見える部屋に飾って、家族で大地の恵みに感謝して夕食をいただく慣わしだと言われていました。
 昔から、農業と月の暦というのは切っても切れないものであった。しかし、太陽暦になってから、日本人の生活に根付いていた季節行事の営みに随分変化があったとはいえ、こうして仲秋の名月を楽しむ習慣が残っているのは、夏の間は汗して働き、収穫の秋を迎えホッとして、互いに喜びを分かち合うということもあるが、それだけではないと思う。「お月見」という習慣は、農業を中心にして生きて来た日本人にとって、月の文化が生活に根差しているということである。単なる月をめでる日というより、豊かな大地の恵みを与えられていることに感謝をする日として、なくしたくないものだ、とその方は言われていました。
 私も子どものころ、ススキとともに里芋、果物、白いおだんごをたくさん作って、窓辺に飾ったことを思い出します。蒸し器から流れるふんわり温かなにおいが、なつかしく思い出されるのです。
 今月の運動会は、今年中国で行われた万博にちなんで、「しおん万博2010 大地に感謝して」というテーマで行われます。先日の保護者会でも、みなさまにお知恵をかしていただいたパビリオンも、今、着々と準備が進んでいるようです。当日はまたぜひおうちの方々、みなさまと共に楽しみたいと思います。
 隈田農園やポニーのひろば農園、また、しおんの屋上で育ってきた作物で作られたしおん鍋を囲んで、秋の一日をご一緒に楽しみましょう。

毛利さんと良寛さん

2010年9月1日発行「おたより」第411号より

 7月から8月いっぱいは合宿の季節でした。年長児、卒園児、ゆり組成人部、ゆり組学童部と4回の合宿を終えると、もう9月。今年もたくさんの出逢いがありました。特にゆり組の北海道長期合宿は、今年も心に残るエピソードがいくつもありました。子どもたちを先にフェリーまで送り、合宿所の片づけなど雑務をするため残ったのですが、フェリー乗り場から近い、余市の道の駅に寄りました。そこに併設されている小さな記念館に何気なく入ってみると、日本人初の宇宙飛行士、毛利さんの記念館で、スペースシャトルの内部や宇宙から見た地球のパネルなどさまざまなものがあり、夏休み中の家族連れや小学生たちが来ていました。ガイドの方もいて、いろいろな説明をして下さっていました。興味深かったのは、ビデオやパネルがたくさん紹介されていたのですが、「みなさんがほんの少し、今の便利さを我慢することができたら、この美しい地球をこれ以上汚さずに済むということを知って欲しい」という毛利さんからの強いメッセージにつらぬかれていたことでした。世界に起こっている大規模な洪水や地震、民族争いなどと共に並べられたパネルのさまざまな惑星や太陽系、そして宇宙から見たとりわけ美しい地球の映像が、地球という美しい星の住人としての我々の日常を考えてほしい、という強いメッセージだったのです。
 ガイドの方が、「ちょっとお話させていただけますか」と私に話しかけられたので、いろいろなことを伺うことが出来たのですが、この余市に毛利さん一家が移り住まれた頃のこと、厳しく、また美しく豊かな自然の中で、獣医さんだった父親のもとで育った毛利少年のことを、とても熱心に話されました。このガイド氏は若い頃、飛行機の整備士だったが、飛行機が飛ぶということは、地球の上に農薬をまいて歩くようなものだと知り、できるだけ汚さないよう整備士としての仕事や研究に力を入れてきたと話されていました。
 今、毛利さんは宇宙開発に関わることよりも、世界を飛び回って地球上に起こっている異変について、実地に調べ、研究しているのだということです。生き物を育んできたかけがえのない地球について、その危機的な現状について、科学者として明らかにしていかなければならないという気持ちで飛び回っておられると、彼は敬愛してやまないという風に話されたのでした。そういえば望来荘の近くの漁民たちが、海流に変化が起こり、それに伴って取れる魚の種類が変わって、今まで取れていたものが取れなくなった、と言っていたことを思い出しました。
 北海道を後にして、フェリーで新潟に着いた時、以前から気になっていた柏崎の良寛さんの記念館にも寄ってみました。この記念館も、この地で良寛さんが、いかに愛され今に至るまで敬愛の的であるかを忍ばせるような、素朴であたたかく、いつまでも居たくなるような所でした。禅僧としての修行の後、寺を持たず、托鉢だけで一生を過ごし、子どもたちと遊び、僧として当然とも思える説法をせずに送った無一物の生活は、本当に豊かな生き方とはこうしたものかと、不思議と考えさせられました。
 少しの不便から見えてくるもの、有り余る物たちに囲まれながら、何か満たされない現代の暮らしを見直さなければならない、と考えさせられたことでした。

海の色、風の香り

2010年8月2日発行「おたより」第410号より

 夏まつりには本当に大勢の方々が来て下さり、とても楽しい夏の一日を過ごせましたこと、感謝いたします。
多くの父母の方々が準備からかかわって下さり、当日も一日中お手伝いいただき、また、いろいろなイベントも楽しいアイデアを出してくださりました。おやじたちの「人力車」や「紙芝居やさん」など、本当に子どもたちが喜んでおりました。父母の方々(卒園した父母の方々も含めて)のご協力なしには、このような盛大な夏まつりにはならなかったと思います。卒園児や卒園児の家族の方々も、退職した先生方も大勢来ていただき、私も懐かしい顔に会えて楽しい時を過ごしました。
 そして今、恒例のしおん学園成人部の長期合宿のため、北海道に来ています。毎年、夏まつり直後に行われる合宿ですので、8月のおたよりの原稿は、ここ北海道で書くことになっています。ここのところ「エゾ梅雨」という耳慣れない言葉がついているほど、北海道の7月は雨ばかりだそうで、なかなかスッキリと晴れないので、楽しみにしていた海水浴もできません。でも、ひんやりした風が心地よく、晴れたり止んだりの空から、時折差し込む陽のじりじりとする北海道の夏特有の陽ざしが、身体にまとわるような暑さではなく過ごしやすく、朝夕は掛け布団や毛布が必要なほどです。
 毎日お天気と相談して、海にしようか、森へ行こうか、テーマパーク、動物園へ出かけるかを決めたり、毎日の食事の支度や洗濯など、忙しく過ごしながら、刻々変化する目の前の海の色や森や心地良い風に吹かれていると、何だか心がからっぽになって不思議な開放感に満たされるのを覚えます。
 今年、合宿に来ている子のうちの2人は卒園児です。2~3歳のころからしおんにいたた彼らも、もう40歳と36歳。朝、ひげなどそっているのを見ると、何だか不思議な気分になります。このしおん学園(通称ゆり組)を作ったのは、彼らとほぼ同じころ在園していたT君の事件があったからです。
 統合保育をするべくこの法人が建てられたのは1973年。すぐ数人のダウン症児と自閉症児が入園して来ました。縦割り保育の中で、小柄なダウン症児は、クラスでもすぐ皆と仲良くなり、今の幼児クラスもそうですが、年少・年中・年長が兄弟のように見えるほど、何でも一緒に互いに助け合う姿が見られ、T君も保育園生活を楽しんでいたと思います。障がい児教育を熱心にされていた故長瀬又男先生(学芸大学教授)が遊びに来られた時、「こんな姿が本来の姿だね」と言われたことを思い出します。
 その時、卒園したT君は、障がい児学校に行かざるを得なかったのですが、休み時間など「健常児」といつも保育園で過ごしていたせいでしょうか、彼本来の人懐こさもあって、自分のクラスの子とではなく、いろいろな子と友だちになろうとしたようです。けれども、そのためかある日、学校の帰り、通級しているクラスの男の子たちにいじめられ、犬のフンを食べさせられたと言うのです。「おまえは俺達の仲間と認めない。おまえは犬だから」…というようなことを言われたようだとお母さんからうかがいました。私は統合保育を続けていて良いのか随分悩みました。この子たちを犠牲にしてしまったのではないか。「住み分け」を求めている社会で弱い彼らに取り返しのできないことが起こってしまっているのではないか…と。
 その後、T君はお父さんの転勤で地方へ行きましたが、学校が終わってからの「障がい児」の居場所として、しおん保育園の中に「ゆりぐみ」ができたのです。しおんではあなたがいるからうれしい、楽しい、そんな関係が、障がいがあろうとなかろうときずけるところであって欲しいと思っています。
 今日、一人の子が熱を出したので、病院へ連れて行きました。皆が本当に病気を心配しています。「君はこの世界にいらない」「君はここでは必要ない」。そのような「黙殺」「無視」が学校や地域の中で行われがちなゆとりのない時代だとも言われています。このような時こそ、ときどきこうして心をからっぽにして、風の匂い、海の色に浸ってみたいと思います。
 どうぞ良い夏を過ごされますように。

子どもの言葉に耳を傾ける場

2010年7月1日発行「おたより」第409号より

 先日、しおんピアノ教室の発表会があった。三十七名の出演者のほとんどは、在園児と卒園児であり、花束やカメラを持ってお祝いに駆けつけて来て下さる家族や友人たちを含めて、百名を超す大盛況で同窓会と言った雰囲気である。
 発表会後の会食では、ピアノ教室のOBも来て夜遅くまで賑やかに盛り上がっていた。出演者とその家族のほかに、友人、知人も加わって、高校一年の一人の男の子は中学時代の友人たちを数人呼んでおり、私にもその子たちを紹介してくれたが、さわやかな印象の男の子たちで、食事をとりながら語り合っている姿が印象的だった。
 高校二年の男の子たちが二人、久しぶりに会ったと随分長い間話し込んでいた。二人共大学受験を考える時期である。彼らは中学のころは、会ってもあまりそっけない子が多かったのに、高校に入ってからは大人のように話しているのが眩しい気がした。
 小学生の後半からピアノ教室に来なくなった子は多いが、それからも指導者の小林先生を慕って互いに連絡を取り合ったり、様々な情報が保育園にも伝わって来たりしている。その中に、中学に入って学校と折り合いが悪く、学校に行かなくなったり、さまざまな「悪い子」の噂が聞こえている。
 その子たちは、在園中はとてもハキハキした子どもらしい正義感を持っており、本当にしっかりした楽しい雰囲気の子で、反社会的なものと繋がっていく要素はみじんもみられない子たちであった。
 今回、そんな一人、S君のお母さんに中学でのトラブルの一端を聞くことができて、彼が彼なりに自分の信ずるものを大切にして戦っていることを知らされた。予想していた通りだったと思うと同時に、何とか力になりたいと心から思ったのであった。
 卒園児が小学校で並んでいる時、横入りした子を注意したら喧嘩になって先生に叱られ、何故そうなったかを説明しようとしたら、手を出したお前が悪いと一方的に言われた、ということもよく聞く。
 イザコザを避けるあまり、社会のルールを学び合い共に生き合うための良い体験の場としてのチャンスを大人たちは生かし切れていないのではないか。否、その芽生えさえもつんでしまってはいないかと思う。一方的に白黒を決めることで、その場はおさまっても、集団の一員として身につけなければならないことは、小中学校の子ども時代にさまざまなトラブルを通して多く体得していくのではないのか。
 不作法、コミュニケーション能力不足、共同作業が苦手、打たれ弱くわがまま、幼稚などなどが、最近の若者に対する一般的な評価ではないかと思うが、キチンと伝えるべきは伝え、納得するまで身体をぶつけ合うことも含めて、互いに理解し合う場が、幼児期から青少年期の生活の中にどれだけあるのだろうか、と考えてしまった。
 「問題児」として、本人の意識の中で「学校から追放された」S君は、中学の時先生をなぐって警察に訴えられたというが、小学校ですら「生徒が乱暴した」と警察沙汰になる今、大人と子どもの関係について我々はもう少し考えなければならないのではないか。私はこの話を聞いた時、殴られて悔しかったら警察を呼ぶ前に、空手でも何でも一つくらい武術を覚えて、生徒と戦って子どもから参ったと言わせるぐらいやって欲しい! と思わず心の中で叫んでしまった(小中学の先生が聞かれたら、叱られるかしら。幼児を見ているだけのお前に何がわかるか…と)。
 ピアノ教室を始めたのは、卒園しても子どもたちと関わりを持ちたい、親や友人にも話せないことを聞いてもらえる場が、子どもたちに必要だと思って、その為の一つの場となって欲しいという願いからであった。
 一人でも本気になって聞いてくれる人がいるということが、大げさなようだけれど、人が生きていく上でどれだけ重要なのかということを、ピアノの先生になっていただく時、私はお願いして、代々の先生はそれを承知して引き受けてくれた。でも、このことを誰よりも一番よく理解して下さったのが、三代目の先生、小林先生で、鍵盤に触る前にまずひとしきりおしゃべりという教室である。ピアノを愛して、受験期に入っても続けたいという子どもを育て、一年に一回のゆりかご時代からの同窓会をこうして続けられ、もう子どもが通っていないのに、ボランティアとして物心両面で力になってくださっている父母の方たちがいて下さること、全てに感謝。
 まだ始まって数年しか経っていない神田先生の弦楽器の教室も、是非長く子どもたちの居場所、自己を表現する場所になっていって欲しい。また、大人たちが少しでも、S君のような子どもの言葉に耳を傾けられる場がもう少し欲しいものだ、と願っている。

ハナのこと

2010年6月1日発行「おたより」第408号より

 「食堂の外をいくら見ても、猫の入れそうな場所がないんですが」
 「何だか泣き声が弱くなっているみたいで…。もしかして親猫は、もう居ないんじゃないかしら」
そのような会話をしたのは、今から二十年前の秋のことでした。

 旧園舎の外側はブロック、内壁は木でした。食堂の壁の中から、子猫らしい泣き声が聞こえて来て、一週間近くになっていました。野良猫が子猫を産んで、何かの理由で世話をしに来なくなったのかもしれない。そう考えると少しずつ弱って行くような気がする子猫の声に、ついに決心して食堂の内壁を壊すことにしました。

 数人の保育者が、壁に耳を当てながら、この辺りかなと検討をつけてはがしていきます。バリバリっという音に子猫が怯えるだろうと心配しながら穴をあけましたが、壊したところには居ず、となりの壁に移り、細かい柱が立っているために苦労しながら何柱目かの壁を壊した時、「居た!」という声。息をのんで見守っていた子どもたちから、歓声が上がりました。弱っている子猫たちをすぐ獣医さんへ連れて行き、あともう少し遅かったら助からなかったもしれないと言われ、間に合って良かったと安心したものです。その時の様子を、今、大学院生の神田奏くん(器楽の神田先生の息子)がまだ覚えていると神田先生から伺いました。

 三匹の子猫の一匹はもらい手がついて行ったのですが、あとニ匹はもらって下さる方がいないまま、事務室で飼うことになったのです。鼻に黒い点がある女の子はハナ、茶トラの男の子はチャーと名付けて、二匹はほとんどを園長室で過ごすことになったのですが、活発な雄猫のチャーは、園の前で車にはねられて死にました。五歳くらいだったでしょう。一匹残ったハナは、さびしそうにしばらくチャーを呼ぶように鳴いたり、あまり動かない日が続いて心配しましたが、やがて、いつものように陽だまりに行って日向ぼっこをしたり、園長室のソファーでのんびり過ごすようになってきました。

 今年の正月休みに、勤務先の北海道から帰って来たからハナに会いに来た、と一人の卒園生が来てくれました。こういうのを虫の知らせとでも言うのでしょうか。あの時会えてよかったと思いました。

 このニ~三年は合宿などで私が長期に留守にした時や、連休などの後、ちょっとボケ症状のような状況がみられたりしていました。園長室に来られるお客様にもすり寄って行って、すっかり甘えっこになって、穏やかであまり人にベタベタしない子だったのに、随分性格が変わったと皆で話していました。

 五月の連休の間、園芸の宮田先生が一日おきに世話に来てくれたのですが、五月五日に亡くなってしまいました。三日は元気で甘えていたとのこと。亡くなったのはたぶん四日だろうとのことでした。亡くなった当日まで食事もしており、トイレも使っていたので、きっと眠ったまま安らかに逝ったのだと思います。

 園長室のドアを開けると、まだどこかにハナがいるような気がしています。今は、学童さんが「ただいま、ハナは!」という声がもう聞かれません。

 「きみは過去と同時に永遠性の中に生きている」。この言葉は、亡くなったプラテーロというロバに語りかけるという形での散文詩集『プラテーロとわたし』にあります。その本の最後の章にあるこの一節を思い出しています。

電車の中で

2010年5月1日発行「おたより」第407号より

 先日、電車を乗り換えようとホームに立っていた。電車のドアが開いて人が降りてきたけれど、ちょうど入口の真ん中に、ひと足ホームに降りて仁王立ちに立っている男の人がいるので、彼の両側から人が出入りするような状況になってしまった。彼は白杖をやや振り回すようにも見えて、口の中で何やら呟いており、とても厳しい表情であった。まわりの人々はその白杖を避けるようにして電車に乗り込んだが、ちょうど私の前の女の人が、白杖に少しふれてしまったらしく、何か激しい調子で言われ、白杖で殴りかからんばかりの様子であった。彼女は逃げるように電車に乗り込み、私もあとから急いで乗り込んだ。電車の戸が閉まり、その男の人も電車から離れて、電車が動き出してほっとしたが、私はなんだかまだドキドキしていた。周りの人たちは何事もなかったようにしていたが、私はこの出来事がずっと気になって仕方なかった。

 目が見えない人にとって、電車の乗り降りは特に危険であるにちがいない。扉が開いて彼はホームに降り立ち、緊張していたであろう。あの男の人は途中失明者で、もしかして白杖の使い方など慣れておらず、イライラもして、あのように荒っぽい使い方になったのかもしれない。自分の今の不自由な状況にイラだちをつのらせていたのだろう。まわりの人は彼を避け、触らないように乗り降りしただけである。私もそうしたのだ。でももし私が彼に声をかけ、改札口までご一緒しましょうと言う勇気があったら、と思うのだ。

 まわりにあまり関心が向かない人々、できれば他の人と関わりを持ちたくないという思い、互いに関わり合いたくないというような状況の中では、孤立感しか生まれてこない。彼の厳しい表情に、それが表れていたのではなかったろうか。

 そんなことを思いながら電車の外の風景を眺めていた。春の芽吹きはこんなに美しいのにと思ったら、涙が出そうだった。

この輝きを

2010年4月15日発行「おたより」第406号より

 ピカピカのランドセルをしょって、小学校の入学式からの帰り、お母さん方と一緒に数人の新1年生たちが、今年もやってきてくれました。途中で、転居して退園したYくんも午後からお母さんと来てくれました。立派な新1年生の姿を見せてくれて、感謝でした。
赤ちゃん時代から、幼い時代をここで家族のように過ごした日々は、私ども保育者たちにとってもかけがえのないものですが、小学生として、新しい友人たちとの出会いが始まろうとしている子どもたちの輝いている姿は、本当にまぶしいばかりです。
 この子たちに起こるであろう、楽しいことも嫌なことも、さまざまな困難があっても、それがこの子たちの輝きを一層強めるものであってほしい。そんな思いでランドセル姿の子たちを眺めていました。卒園の文集に、私はこの園でおうちの人々とともにいろんな人々に出会い、みんなから愛されて過ごしてきたことを忘れず、やがて愛をそそぐ人になってほしいと書きました。人は幸せになる義務がある存在だ、と私はよく思うのです。子どもたちを見ていると、本当にいつもそう思うのです。
 先日、井上ひさしさんが亡くなったことを知り、びっくりしました。彼の作品に共感していました。学生時代から「おバカさん」など初期のものから、「吉里吉里人」では東北のひとつの村が独立した国になるという話に考えさせられました。ぶ厚い本の重さに閉口しながら、今、この現実を幸せに生きることの責任について考えさせられたものです。
 「ボローニャ紀行」で、イタリアのレジスタンス運動の歴史を述べている行間に、日本という国の姿が併記されているのを感じました。平和について希求し続けている彼の姿は、彼の戦争体験によるところが大きいでしょう。彼は、ボローニャ人気質というか、熱い思いとして、「自分が今生きている場所を大事にしよう。この場所さえしっかりしていれば、人は何とか幸せに生きていくことができる」という考え方を紹介していますが、それはそのまま彼自身の思いでもあるのではないかと思いました。
 「ボローニャ紀行」のあとがきに代えてというところで、一人のイタリア人学者との会話が紹介されています。 
「たとえばボローニャの場合、戦後の最悪の状態から立ち上がったのだという記憶がある。それも社会的協同組合という手法でね。これがわれら市民の奥の手ですね」
「……社会的協同組合か。それは日本にはないなあ」
「わたしたちは、自分たちの場所に発生した問題は、社会的協同組合をつくって自分たちの手で解決してきた。首相も市長も中道左派に代わって、文化予算なども増額するらしい。だから、なんとかなるはずです。近いうちにあなたの芝居をイタリアで観ることができるようになるとおもいますよ」
 いまの世界では、どの国も似たような問題を抱えているらしい。しかしその問題を乗り越える手を持つ国と、まだ持たない国がある。その手があるだけボローニャはいいな…(後略)
 しおんを卒園した子どもたちは、一期生はもう40代に入っている。子どもたち一人ひとりが今、生きている場所を大切に丁寧に生きて、いつまでもこの新1年生の輝きが失われませんようにと祈りたいと思います。

大丈夫と背中を押してくれる人

2010年3月1日発行「おたより」第405号より

 先日の「天声人語」に、「『ゲド戦記』の翻訳で知られる児童文学の清水真砂子さんが、青山学院女子短大を去る最後の講義で『すぐれた子どもの文学は、苦しくても生きてごらん、大丈夫と背中を押してくれる。みなさんもそんな一人に…』」という言葉が引用されていた。この講義は、過日朝日新聞に掲載されていて、私も共感し、園児のお母様の一人からもこの記事の切り抜きを頂いていた。この言葉が、これほど人の心をとらえ、人々の心を打つのは、少々大袈裟に聞こえそうであるが、現代に生きる者への希望のメッセージとも言えるものだからではないかと思う。

 三月は、卒業、卒園の季節。子どもたちには、明るく元気で、楽しいことをたくさん経験して成長して欲しいと誰しも思う。しかし、何にも悩みはないように思える乳幼児にだって、楽しいことばかりではない。悩みや孤独感はしっかりあるのである。心細い、不安、気味悪い、怖い、悲しいなどの感情は、心地よい、安心、嬉しいなどという気持とともに、生まれてすぐから少しずつ明確になってくる。そのような悩みや苦しい体験が人に思慮を与えるものであることを忘れがちである。人を感動させる美しい絵画が陰影にいろどられなければ成り立たないように、人生も味わうに足る豊かなものにはなり得ないであろう。しかし、「苦しくても生きてごらん、大丈夫」と背中を押してくれる存在なくては、どんなにそれが苦しい戦いになることかは自分自身の過去を振り返っても明白である。誰からも優しくされ、友だちと仲良く、危ない目に合わず、賢く、幸せに人生を送ってもらいたいと願うが、同時に子どもたちが思慮深く、人生を充分豊かに味わって生きることを思いめぐらしたいと思う。

 卒園を迎え、毎日嬉しそうに友だちと遊び、卒園で披露する合奏を喜んでやっている年長たちを見ていると、この子たちが今後、すぐれた児童文学、そしていろいろな芸術にそっと背中を押してもらえるような出会いを、どうぞ経験しますよう、そして、そういう人と出会いながら成長して行けますよう、心から願うのである。