早川寿美子 園長便り

トモエのキャンプ

2022年9月1日発行「おたより」第552号より

 20年以上前になるだろうか。「人間環境学会」という名の研究会の知らせが届いた。札幌の藻岩山の中、一泊での会であった。それが「札幌トモエ幼稚園」との出会いである。
 藻岩山は以前と違って、山の中ではなくなってるのかな? 私が東京に来てから、もう20年くらい経っている。幼稚園が出来ても不思議はないと思い、懐かしさもあって出かけたのを覚えている。今では学園さんの合宿の時も、幼稚園で遊ばせてもらったりしている。札幌トモエ幼稚園という森に囲まれた幼稚園が、今の私にとっては札幌の実家のようである。
 トモエには、園児と家族が一緒に登園する。子どもは自分たちで思い思いの遊びをし、自分の親の傍にくっついているような子はいない。ある時、突然2歳ぐらいの子に話しかけられた。「おばさん、あの窓に登りたいから、あの椅子をここに持ってきて」というのだ。窓の下には大きく厚いマットが敷いてあるとはいえ、危ないではないか。「あなた、この椅子を踏み台にして、あそこへ一人で登るの?」と聞くと、彼は怒って「僕は一人であの大きな椅子を持ってこれない。だから持ってきて、と言っているでしょ」と。あの窓からジャンプするのかと思ったら、危ないからやめさせなければ、と思った。しかし、「早くして。ぼくはあそこから飛びたいんだ」という声に、思わず椅子を動かしてやった。彼は嬉しそうに踏み台から窓枠に登り、大きなマットに飛び込み、ジャンプを繰り返しながら、満足そうであった。あの自信に満ちた表情を忘れることができない。
 この幼稚園では毎年、夏休みの1~2日間に卒園児たちが来て、庭などにテントを張ってキャンプを行う。コロナが心配で、わが園でも学園の合宿はやめたので、さすがに今年はないだろうと思っていたけれど、さすがトモエというか、いつもとまったく変わらずキャンプが行われていた。人数は少なかったが、親も子も楽しそうにしている。ちなみにわが園の南畑牧場のピザ窯は、はるばる北海道から石を運び、トモエの先生に教えていただきながら作ったものだ。「ピザ窯うまくいってる?」と、教えてくださった先生が心配そうに聞いてくれた。「トモエで何かある度にピザを焼いて楽しんでいるように、このピザ窯と同じものが南畑で今活躍していますよ」と伝えると、先生もほっとし、そして喜んでくださった。
 幼稚園の送迎バスには、大人も一緒に乗ってくる。お母さんだけでなく、お父さんやおじいさん、おばあさんも乗ってくる。赤ちゃんをつれて来たり、お昼にはオープンな台所で何か作っている人がいたり、いつもにぎやかだ。お弁当の他にスープなんかを作っているようなときもあった。ときにはお父さんらしき人が机を持ってきて、パソコンで仕事をしていたこともあった。「職員室」にはいろいろな人が出入りしていて、赤ちゃん用のベッドが3台もあったことがある。ときどき子どもたちが見に来ては、手をそっと触ったりしていた。
 そんな子どもたちを見ていると、私は自分の幼い頃の光景、昔の北海道の子どもたちの生活を、ふと思い出すのである。どこかに赤ちゃんが産まれると、みんなして触りに行った。ちょっと大きな子たちとよく遊んでもらった。小学生が幼児の面倒を見て、みんなで川遊びや山へブドウを取りに行ったり、たくさんの夏休み体験をした日々。大人たちも子どもと遊ぶけれど、「○〇しちゃだめよ」とか「〇〇しなかった?」などという言葉は、ここでは聞いたことがない。園庭には沢への道があり、季節によっては近くに熊が出るという話もあるようなところで、子どもが自然の中であれほど生き生きと遊ぶ姿が見られるのは、日本ではもう希少なのではないか、とここに来るたびに思うのである。

讃美歌

2022年7月1日発行「おたより」第551号より

 合宿の時に、みんなで歌える讃美歌を決めようと探していたら、『うまれる まえから』という子ども讃美歌が目に入りました。作詞は富岡ぬい氏、伴奏譜は富岡正男氏。今、保育園に音楽の講師で来てくださっている丸山先生のご両親でした。はじめて母となる方の気持ちが込められた歌で、保育園でも誕生会に歌っています。
 《うまれる前から神様に守られてきた友だちの誕生日です おめでとう》
この詩をつくった方の赤ちゃんが、丸山先生というわけです。
ページをめくると他にもいろいろな先生方の讃美歌があり、懐かしく思いました。若い頃に通った教会で、いろいろなおはなしを聞く機会があった牧師先生たちが作られて、とても興味深いものでした。
 そういえば、有名な『きよしこのよる』の歌詞も、『パンセ』の翻訳者として知られている牧師の由木康先生によるものでした。由木先生は、日本の幼児教育の原型ともいえる「二葉保育園」の設立に、学生の時から関わっておられたと聞いたことがあります。日本の幼稚園のはじめは、学習院の幼児部に始まったといわれていますが、当時の幼児教育とはどんなものだったのでしょう。本当に「幼児の花園」とフレーベルがいうようなものだったのでしょうか。それは、その周辺にいたいわゆる戦争孤児たち、親たちから保護を与えられない子どもたちに、彼らにこそ与えられるものと考えた人たちの歩みの中で進められ、現在もその時の保育園の活動は続いています。これからも子どもたちのニーズに応えた活動を続けていくことでしょう。
 思えば、乳母日傘(おんばひがさ)でやって来た小さな淑女たちの通う幼稚園の先生方が当時、アメリカの宣教師たちの援助を受けながらといえ、学習院の森の中につくられた幼稚園で、どのような教育をしていたのか興味がわきますが、私にはエリート中のエリートのその教師たちが、夜は近くの「浮浪児」といわれ、世話をしてくれる大人がいない子どもと共に過ごし、それはやがて保育園として今も現存する、ということについて考えます。由木先生は、彼女たちと聖書を読み、祈り会をするというかたちで、この事業に参加していたと、設立にかかわった方から聞いたことがあります。
はあったけれど、弱い子どもを守る社会の仕組みや、いろいろな大人たちの愛情や働きがあって育まれて 戦争にすべてを奪われた時代でいたこれらの出来事を、改めて今、考えたいと思っています。

年長合宿

2022年6月1日発行「おたより」第550号より

 春の親子遠足では、皆様のご協力をいただき感謝いたします。卒園児たちが植えた樹々が少しずつ増え、生き物もヤギのほかに、保育園の裏庭から「バリケン」が数羽、先住の鶏たちの群れに入れてもらって、ますますにぎやかになってきました。チャボやレグホン、ウコッケイと、大きさも違う彼らですが、今のところは平和に暮らしているようです。沖縄育ちのバリケンたちも仲良くできるといいな。
 いつもは友だちや先生と過ごしている牧場で、お家の方と遊べたのは、子どもたちにとって特別うれしいようでした。ドラム缶風呂も大層人気がありました。年長合宿でも、ドラム缶風呂は大人気です。パチパチ音を立てて燃える火やお湯の揺らぎ、少し大きな子ほど空が見えて、風が心地よい……。温かいお湯に首まで浸かりながら見える世界を、子どもたちは楽しみにしていたようです。雨が少し降り出しても、お風呂に入りたいとやってきた子が何人もいましたね。子どもたちの入浴シーンは本当に気持ちよさそうで、見ている私も「しあわせ……」と思わず見とれてしまいました。卒園してからも、小雨まじりの親子遠足のことを思い出してくれるかしら。
今年の年長合宿ももうすぐです。今度は親子ではなく、年長さんだけの合宿です。3日間、友だちと、先生たちと、ポニーも仲間に入って、一緒に過ごす山の生活で一段とたのもしくなることでしょう。

ヤギとあそぼう

2022年5月9日発行「おたより」第549号より

 新入園の子も園生活に慣れてきて、子どもたちは春のあたたかな日差しを喜びながら、外遊びを楽しんでいる毎日です。
 もうすぐ南畑牧場での親子遠足ですね。おうちの方もご一緒に、ヤギやニワトリたちとふれあえるよい機会にしていただけたら、と思います。
 ヤギは表情がそれは柔和で、まるで笑ってでもいるかのように優しい顔をしています。「やぎさんゆうびん」「メエメエ子ヤギ」などに歌われるように、ヤギは子どもたちと友だちになれる動物だと思います。
 ヤギといえば、かつて友人がヤギを飼い始めて、ヤギは人間のような言葉を持たないけれど表情や態度で感情が伝わるものよ、と言って、家族で田舎暮らしをしていたことがあります。彼女自身、都会育ちでどうなることかと思ったものですが、近所の農家の人に手伝ってもらったとはいえ10年近くヤギを飼い、車で20分のほど離れた町で小児歯科医の仕事をしていました。「ヤギの乳が余っているので飲みに来て!」との電話で、私もわが子を連れてよく出かけていったものです。
 3人の子のお子さんがいて、みんな医師(小児科、産科)になっています。子ども時代の暮らしは楽しかったようで、彼らの仕事に影響も大きかったと言います。命と向かい合う仕事に就いた背景を考えると、都会っ子が交代でヤギの世話をした経験は大きいものだったのでは、と思うのです。
 子ども時代に自然の中で過ごしたことが、その人にとっての大切な体験として記憶されることはよく聞きます。コロナを心配しながらも、自然の中で命を感じる体験を大切にしたいものです。春の遠足はかわいいヤギたちが待っている牧場です。大好きな場所で、おうちの方と一緒に過ごせることは、とてもうれしいに違いありません。「南畑牧場」での遠足を、みんなで楽しみたいと思います。

新学期に祈る

2022年4月15日発行「おたより」第548号より

 今年もこの春、小学校・中学校に入学した新1年生が来てくれた。中学校の入学式は二部制だとかで、いつものように、みんなが全員一緒ではなかったが、外で写真を撮った。中学生は本当に急に大人びて、頼もしく見える。旧担任と外でしばらく話をしているとき、急にみんな幼児時代に戻った感じがして、毎年のことながら改めて彼らの成長をかみしめる時間である。
 コロナ禍で、人との関わりが、ともすれば希薄になりがちな今、春めいてきた陽射しの中、急に大人びて頼もしくなって来た子どもたちがまぶしく見えた。このようにりりしく、優しく成長させてくださった神さまに感謝……。
 保育園時代からのこの子たちの友情が、これからも続きますように、と祈る新学期である。


食べること

2022年3月1日発行「おたより」第547号より

 以前、ある職員から、わが園でもグルテンフリーの食事を検討して、園の給食からパン食を見直してはどうか、という提案があった。聞けば、アメリカの医学界で、パン食に健康上の問題があるという医師の論文が出て話題になっている、ということだった。グルテンに問題があるという。テレビでも「○○という食品が健康に良い」とかいう話題に視聴者は敏感で、話題になった食品はたちまち店頭からなくなるなど、スーパーの食品の売り上げに大きく影響があるそうだ。
 昔から日本には「医食同源」という言葉があるけれど、このように◯○が良いとかダメとかいう話が、集団給食にまで影響するという情報社会の危うさを思う。
 日本でまだ玄米が主流であった時代、玄米を精米しておいしく炊いて食べるようになった江戸では(庶民は、玄米や雑穀とイモなどの野菜を食べていた)、ぶらぶら病、江戸わずらい、と呼ばれる奇病が流行ったといわれている。これは、白米として米の胚芽部分を取り去ってしまった結果、ビタミン不足になって「脚気(かっけ)」などの深刻な病気を引き起こしたのではないか、と考えられている。今でこそさまざまな「おかず」で栄養を補えるけれども、米を丸ごと食べなくなったこと、端的に言えば、米の中心部だけを食べるということが、健康をむしばんでしまうのだ。
 食物は丸ごと全部食べる(一物全体)のが基本であり、自分の生活している場所近くで得たものを食する(身土不二)という考え方が、近年の健康情報の氾濫によって、軽視されるようになったと感じている。昔と違って、外国産の珍しいものを簡単に手に入れることもできるし、体を冷やす冷たい食べ物を暖房の効いた部屋でいただくという贅沢もできる。そんな今、自然が与えてくれた食を、文字どおりに「自然食」としていただくことのありがたさを、子どもたちにもきちんと伝えていきたい、と思う今日この頃である。


豆まきの日

2022年2月1日発行「おたより」第546号より

 札幌でも最も寒い季節、節分の日には暗くなると、近くのどこの家からも「オニはソト~」という声が聞こえてくる。ふだんはあまり家にいない父も、その時期は家にいることが多かったのか、戸を大きく開けて玄関からトイレの中まで大声で「オニはソト、フクはウチ」と呼ばわりながら豆をまいていくのを、頼もしく思ったものである。どの家からもその日の夕方になると、このように何とも頼もしい声が聞こえていた。私の子どもの頃の節分の夜である。
 戸を開けて、トイレから台所まで家中くまなく「オニはソト」と豆をまく。そして最後に「フクはウチ!」とまきながら歩き、あわてて窓やすべての戸を閉める。庭に向かって大きく開いていた縁側の窓も閉める。悪い鬼を追い出して、入って来られないようするためだ。そして鬼を追い払った後、子どもが豆を拾い集める。拾った大豆を炒って、「年の数だよ」と言われながら、炒りたての大豆をみんなでかみしめながら、冬の寒さから何となく家族が守られているような安堵感を抱いていたことを思い出す。
 東久留米に来た時、あるお宅の玄関の引き戸を開けようとして、ふっと上を見たら、イワシの頭が飾られていてびっくりした。北海道にはないなーと思って札幌の友達に話したら、「こっちでそんなことしたら、いつまでも凍ったまんまでしょ!」と言われた。本州では魚が腐って、その臭いでオニが逃げるからだという。
 北国でも一番寒い頃に、家中をくまなくきれいに掃除をして、豆を年の数食べるというのは、単なる鬼やらいではなく、待ち遠しい春を呼び入れる喜びの行事でもあったような気がする。
 曾祖母が福井県からお嫁に来た時は、目の前の大木が「凍(しば)れて」キーというような悲鳴をあげて裂けて倒れたのを見たという話を、子どもの頃に聞いた。お嫁に来て一番ショックだった話として……。札幌の人口が増えるにしたがい、気温の変化もあったのだろう。そのような体験は私たちにはない。私たち世代は知らない、北海道の昔の自然の姿である。
 コロナ対策に追われる日々、もう一度、生活を見直してみる時間ととらえ、つつましかった昔からの食生活について考えたいと思う。「オニ」を追い出すという先人の知恵について、考えさせられるこの頃である。


まていに生活すること

2022年1月14日発行「おたより」第545号より

 先日、地域発信の情報誌を見せていただく機会がありました。その中にあった「捨てられたお米」というタイトルの記事を見て、とても考えさせられました。
 あるマンションのゴミ置き場に、封の切っていない5キロ入りの米の袋が2袋出されていた。賞味期限を少し切れていたというものの、封も切らずに米を捨てるということがショックだった、という記事でした。記者はお米を捨てざるをえない何らかの理由があるにしても、何らかの形で生かされる方法はなかったのか。簡単に「ゴミ」とする社会は、簡単に人をも切り捨てる社会と無関係ではないだろう、というような内容でした。
 この記者のいうとおり、いや私の世代はもっと「米一粒」も無駄にすることは許されないという時代を生きてきました。子ども時代は、食事中に膝を崩したら行儀が悪いといわれ、ごはんをこぼしたりすると叱られました。お百姓さんがどれだけ手間をかけてお米を作ってくださっているのか…に始まり、ごはんを粗末にすると今に神様からのバチが当たると叱られたものです。米への信仰とでもいうのでしょうか。おおげさに言えば、我々が命をつないでいくためのシンボルともいえる大事な食物だったと思います。ですから、命あるものを簡単にゴミにしてしまうことは、簡単に人をも切り捨てることにつながるのではないかという記者の言葉には、大きくうなずかされました。
 曾祖母の口癖に「まていな(丁寧な)仕事をしなさい」という言葉があります。小さくなった手編みのセーターが、別の毛糸と混ぜて冬のコートに変わったり、冬の座布団カバーになったりと、簡単に捨ててしまうのではなく、何らかの形で生活の中に長い間、共に存在していました。そんなあれこれを思い出して、随分と「使い捨て」が多くなった現代の、物の命の短さを思ったのです。
 新しい年を迎え、家にいることが多くなった今、「まていな生活」の仕方を考えてみませんか。


クリスマス

2021年12月1日発行「おたより」第544号より

 日本ではクリスマスというと、ロマンチックなイベントとしてすっかり定着しているように感じます。
 子ども時代、私の家でも毎年サンタさんが来ました。なぜかクリスマスの朝、新しい洋服が赤いリボンで飾られて、寝ている間に置かれていたのです。「サンタさんだー」と、姉とそれぞれのプレゼントを見せ合ったクリスマスの朝でした。このときのプレゼントのセーターの犬の模様、どこかで見たことがあると思ったのですが、それが夜中に母親が手編みで編みこんでいたのをのぞき見したのだ、と気づいたのは後のことです。
 戦後、父や兄が戦死したとか戻ってこないなど、みんなが貧しくておやつなどはなかった時代でした。札幌では、米兵が親しげに子どもたちにお菓子などを配ってくれたりしていましたが、わが家では決してもらってはならないと言われていました。クリスマスには、クリスチャンの家ではないけれど、ツリーの飾りやプレゼントがありました。庭のモミの木を鉢ごと居間に入れ、ツリーの飾りを祖母と一緒につくりました。飾りは、物のない時代だったので、父の吸っていたタバコの箱やホイル紙、きれいな包み紙、古いボタンなどを使って工夫しました。古いボタンや身近な物が思いがけなく美しい飾りになるので、私と姉は一緒にどんな飾りができるか楽しみにしながらツリーを飾りました。みんなが貧しいときでしたが、幼い私たちにとっては豊かなときだったのです。
 そして今、この平和な時代にクリスマスを祝うことへの感謝を思うのです。米兵から決して物をもらってはいけないと言い、戦争から戻ってきても近所の方が仕事につけなくて大変なのに、わが家では父が病弱で戦争に行かなくて申し訳ないと言って頑張っていた祖母のことを思い出します。
 地上に平和をと祈るクリスマス、子どもたち一人ひとりが幼い日の宝物としてのクリスマスになることを願いながら、子どもたちと一緒にキリストの降誕劇の練習をしています。クリスマスは、戦争のない平和がいつまでも続きますように、と願うときでもあります。


運動会

2021年11月1日発行「おたより」第543号より

 今回も、コロナ対策をしながらの二部制運動会でしたが、さわやかな秋風の中、子どもたちがおうちの方々とのびのびと遊んでいた姿が本当に楽しそうで、豊かな1日になったと思います。おうちの方々と一緒に秋の日差しの中で過ごした時間は、楽しい思い出として、子どもたちの心に残ってくれたことでしょう。恒例のやしのみとりは、竹を支えてくださったお父さん方の、文字通りの支えがあって、無事に行えました。心から感謝いたします。
 以前、竹のぼりの練習を始めて、一番高いところまで届いた子が、大きな声で「あ、郵便局が見えるよ!」」とさけびました。自分が行ったことのある郵便局を、空から見下ろすような感じだったのでしょうか。まるで鳥になったような感じを味わっていたのかもしれません。
 世界中で読まれ続けている『ニルスのふしぎな旅』(セルマ・ラーゲルレーヴ著)で、小人にされたニルスが空から見た世界は、世界中の子どもたちの夢でもあったのではないでしょうか。
自分の力でのぼれた子、今回は心の準備ができず応援にまわった子、いろいろなドラマがありました。小学生になってから挑戦する子も少なくありません。秋空へ向かって立っていた1本の竹、その竹を支えているたくさんの手をきっと覚えていてくれると思います。


古本の楽しさ

2021年10月1日発行「おたより」第542号より

 下里団地が出来た頃、若い方の入居が多く、団地に保育園を設置することを求められていた。滝山で小規模の乳児保育園を設立したばかりであったが、新しい団地に保育園は早急に必要で、東京都の求めでそれを引き受けることにした。団地全体が新しく、子どもたちも多く、地域の結びつきも豊かで活気があった。
 団地の商店街も賑やかで、閉店してしまった店も多い今の商店街の風景に寂しさを感じてしまう。子ども同士も、親同士も親しく、全体に若い活気のある時代であったことをなつかしく思い出す。
 当時の園児たちは未だに交流が続いている子が多い。コロナ禍でより一層、人との交わりが不自由になった今、少しでもさまざまな人との交流の場となればと思い、しおんベーカリー勿忘草の隣に新しく、しおん学園の工房を開設した。学園生が作った陶器などの販売のほか、読まなくなった本などを並べて、自由に読める場所としたいと声をかけたら、いろいろな人から本の寄贈もあってなかなか楽しい本棚になった。懐かしい本と出合って、子ども時代を思い出したり、思い出話をしながら友だちと一緒に本を読んだり、そんなノスタルジックな気分になれる場所にもなっているように思う。
 そんなことを考えいたら、急に小学生の頃に学校図書館で借りて読んだエレナ・ポーターの『少女パレアナ』のことを思い出した。つらい時や悲しい時も、その出来事の中によかったことを探す「よかった探し」をする主人公に憧れた。自分も同じように、嫌な出来事や悲しい時に「よかった探し」をしたことも思い出す。
 誰かが読んでたくさんの思い出が詰まっている古本の楽しさを、いろいろと不自由なコロナ禍の今だからこそ味わってみませんか。


北国の浜辺で思ったこと

2021年9月1日発行「おたより」第541号より

 毎年夏は北海道で過ごすようになって何年になるだろう。昨年と今年はコロナ禍で、学園合宿は残念ながら見送りとなってしまった。
 いつも合宿をしているのは、札幌から1時間ほど離れた日本海を臨む「望来(もうらい)」というところで、もともとは小さな漁村だったが、今は札幌市内に住む人たちの別荘地となっている。真夏でも朝夕は寒いくらいで、暑い時期に集中して仕事をするためには、私にとってはなくてはならない場所である。
 ここの住民の多くは札幌に住んでいて、週末に日曜菜園をやりにくる人たちだ。何年か先の定年を見越して、そのころには定住したいと考えて、自分で土台から少しずつコツコツと家づくりに励んでいる人などいて、土日になると人口が増える場所である。そのような所へ東京から人が行くのは迷惑と思われそうで心配だったが、近所の方からは「いつもの兄ちゃんたち(学園生たち)は? 今年も来ないのかい!」と声をかけられ、自分の畑で作っている野菜をくださる方もいてありがたい。
 随分昔になるが、スウェーデンで老人施設と保育園の複合施設が作られたということで、視察の機会があった。いろいろ学ぶことは多かったけれど、施設のあり方そのものよりも、市民の生活の仕方に興味があった。週末には学校や職場のある都会から、家族で郊外の森の中へ行き、自分たちで家を建てたり、木から木にロープをわたして手洗いした洗濯物を干したり、父と子が一緒に壁のペンキ塗りをしたりしていた。望来で過ごす人たちを見て、そのときに目にした、家族の豊かな時間の様子を思い出した。スウェーデンやドイツと違うのは、この村は若い人がいないということ。若い人が来るのは短い夏に1~2回くらいで、家族より友人同士で近くの海まで車で来て、たき火をしながら海辺で騒ぐという印象である。
 コロナ禍で、家で過ごすことが多くなっている今、家族で豊かな時間を過ごせたら……と思い、ふとヨーロッパで見た週末の過ごし方を思い出した。

夏の園庭にて

2021年8月2日発行「おたより」第540号より

 ミーンミーンと園庭がにぎやかになってきた。セミって梅雨が明けると急に一斉に鳴きだすものだな、と今年も思う。
 小学生のころ、家の周りには林があちこちにあり、短い北国の夏を、虫たちも、人間の子どもたちも、それぞれに楽しんでいた。私がかつての札幌の話をすると、わが家の子どもたちからは「おばあちゃん(私の母)の子ども時代は、石器時代に近い生活をしてたんだね」と、半ばまじめな顔で言われた。たしかに、アイロンの熱は電気ではなく木炭だったし、魚を焼くときは七輪で、ネコに取られないように子どもたちが火の番をさせられた。まさにサザエさんの「お魚くわえたドラネコ」の世界である。
 姉と私は、足踏みミシンで作られた服で育った(私はお姉ちゃんのおさがりばかりで、新調するのはハレの日のお祝いの時であった)。手作りのよいところは、背の高さやいろいろな体の変化に応じて手直しして、何年か着られることであったが、古い衣類をほどいていくうちに、その物の持つ手触りの違いを知り、また同時に福井から北海道にお嫁入りをしてきたというおばあちゃんの話をぽつぽつと聞くうちに、その布の用途と昔の生活が物語のように幼い私の心に入ってきていたのでないかと思う。
 そのような布のひと切れを、幼い私は何に使うわけでもないけれども、少しずつ分けてもらって、大事に持っていたのを思い出す。それはもう役割を終えているけれども、手触り、色、においなど、それぞれかけがえのない存在だったのかもしれないと感じられた「物」の命について、ふと思わされたセミの声であった。

掛け軸の犬の絵に想う

2021年7月1日発行「おたより」第539号より

 先日テレビを何となく見ていたら、ネコの番組だった。そういえば、保護ネコや保護犬の番組が目につくようになったように思う。新しい飼い主に出会って、少しずつ仲間とも慣れていく様子が語られていた。
 私の子どもの頃はネコも犬も自由で、ネコは寝る時間にしか帰ってこないし、犬は「犬ごろしにつかまったら大変。つないでおきなさい」と近所から言われる時代。人間と彼らの世界は、かなりの部分「それぞれの世界」だったと思う。
 ときどき犬で思い出すのは、飼い犬のことではなく、私の家にあった掛け軸の犬のことである。
 季節ごとに掛け軸を替えていたのは曾祖母だったが、ある時、季節を感じる夏の景色ではなく、犬の絵に替えていた。初めて見たので、この犬どこの犬?と聞いた。動物だけの絵は初めてで、たいてい季節の景色みたいなのだったから、不思議な気がしたのである。なぜそれだけを記憶しているのかは不思議であるが、その時、この犬は大変立派な犬で、家の子どもを守ったから絵描きに描かせたものだという。毛のふさふさした小さな犬で、クマと戦えるような中型のアイヌ犬や、荷運びに適したようなたくましい感じでもなく、どちらかというと賢そうな目が印象的な犬であった。
 当時は、夏の間戸を開け広げてあった部屋にいた幼い子を巻き込むような押し込み強盗があった時代ゆえ、どろぼうや、春先になると人里まで出てきたというクマから人間を守った犬ということなのだろうか。今となってはまったくわからないのだが、ふとあの犬の賢そうな目を思い出し、墨だけで描かれている1枚の掛け軸の中に、どのようなドラマがあったのだろうと思うのだ。祖母の話ゆえなのか。小さな犬の威厳のようなものを幼い私が感じたことと同時に、それを描かせた大人の愛情がうかがえて、記憶に残っているのかもしれない。ペットというより、厳しい北国での生活で生まれた同労者としての犬の存在、小さくても威厳に満ちた目を持つ犬の絵であった。
 祖母にその時に聞いたはずなのだが……。生き物同士が近い距離で生きていた時代の話を。

うれしい訪れ

2021年6月1日発行「おたより」第538号より

 先日、門の外からのぞいている、バイクに乗ったヘルメット姿の男性がいた。声をかけると「園長先生ですか、○○です」という。名前は覚えがあるのだが、すっかり(大人? おじさん)になっているので、よくわからない。しかし、名前には覚えがあるので聞いてみる。現在43歳とか。アッと思った。そういえば何となく目元に覚えがある。卒園後、夏まつりなどには来たことはなく、多分卒園して初めて会ったのだ。
 仕事で東京に来たので、わざわざ東久留米の下里団地を目指してバイクを走らせたという。園舎に入る時間がないと言って、懐かしそうに庭を見ていた。「こっちに階段があったのに…。すごく頑丈な塀が出来ちゃって…」と言いながら、しばらくしてやっと園舎が建て替えたのだと気がついたようだ。
 私は園舎を建て替えるにあたって、卒園児全員に手紙を書いてお知らせしたのだが、伝わらない子もいたのかな。このように懐かしく思い出してくれる子どもたちがいてくれると思い、卒園児全員に旧舎を取り壊す前に会いましょうと呼びかけた時、卒園児が何十人も来てくれたのを思い出した。そのことを言うと、彼は覚えがない、という。もしかしてそのころにはずでに引っ越していたのかもしれない、と思われた。
 卒園児が今は父や母になって、彼らの子どもが園児として通ってきていることもあると言うと、彼は自分は結婚していない、と言った。そして忙しそうにバイクで去っていった。私は彼が自分のふるさとに会いに来てくれたように思い、ありがたく、凛々しく成長した彼が来てくれたことがありがたく、彼の幸せを祈らずにはいられなかった。
 それにしても、裏庭は彼の時代の面影が少し残っている所、せめて庭に入ってもらえばよかったか…と未練がましく、彼の立ち去った方を眺めていた。

こどもの日に想う

2021年5月6日発行「おたより」第537号より

 5月は気候が爽やかで連休があり、子ども時代は特に大好きでした。北海道はお花見のシーズンでもありました。5月になると毎年のように思い出すことがあります。
 家庭を持って自分の子どもが産まれたとき、独身のころとは違った気持ちで思い出すのは、初めて児童養護施設で働いたときのことです。事情があって家庭で育てられない子どものために働きたいとずっと考えていた私は、それを親に反対されたため、自力で勉強しようとある養護施設に「学習指導員」として入れていただきました。昼間は学校へ行き、夜はその施設の中学生に勉強を教えるという仕事で、住み込みで採用されたのです。
 学校でも勉強の習慣がついていない彼らは、机に向かうことも嫌がります。私と年も近い中学生の受験勉強の手伝いはかなり大変で、一緒に本を読んだり、たわいないおしゃべりをしたりするのがやっとでした。でも、急用が出来て5月の連休に札幌のわが家に10日ほど帰って施設に戻ったとき、養護施設の子どもの日常について、この施設の生活がテレビに報じられたことを聞きました。ドキュメントのようなものだったようで、施設の名が出されたのでもなさそうですが、思春期の子どもには「オレたちをメシのタネにしやがって」という一人の中学生の言葉を聞いて、私はショックを受けました。
 TVスタッフがきていつもより賑やかな様子に、幼い子どもたちは喜んでいたといいますが、他の「まっとうな家庭」ではない施設にいる自分と対比せざるをえない気持ちを考えると、心が痛みました。一人の保母さんに叱られた中学生が「テメエ、オレたちをメシのタネにしやがってデカイ顔すんな!」とさけんでいたことにも、私はただ立ちすくむばかりでした。
 こどもの日は、子どもの権利について考える日でもあります。児童憲章は1951年に出されました。私は学生時代それをつくったメンバーの一人の先生からお聞きしたことがあります。彼女は内務省で、国連で出された「児童権利宣言」をもとに(アメリカの指導のもと)草案づくりに関わられたとおっしゃっていました。改めて1951年5月5日に宣言されたこの言葉をかみしめたいと思います。
児童は、人として尊ばれる。
児童は、社会の一員として重んぜられる。
児童は、よい環境のなかで育てられる。

卒業入学の今、思うこと

2021年4月15日発行「おたより」第536号より

 先日ラジオを聞くともなしに聞いていたら、学校の担任などが1対1で小学生と話してはいけない?というような話が聞こえてきた。以前、クラブ活動も先生が大変?ということもあるのか、「部活」を学校内ではなく外部の個人や団体に委託するような試みがあるとか…と聞いたことがある。児童ワイセツの事件などの対策とはいえ、考えさせられる。
 前回の朝ドラ『エール』のテーマのひとつに、教師と生徒との心の交流があった。気の弱い子が、小学校の先生との出会いで音楽家を志していくという古関裕而をモデルにした物語である。私自身も友人たちとの懐かしい日々を思う時、必ず中学、高校の先生たちとの関わりがあった。中学の時の担任とは、東京での学生生活の中でも続き、先生が上京した時には会いに来てくれて、いろいろアドバイスをしてくださったり、教育関係のいろいろな人を紹介してくださったりして、勉強させてもらった。また札幌に帰ると「大人になったから」とススキノに飲みに連れて行ってもらったりもした。中高生時代の何人かの先生抜きには、今の仕事への導きはなかったようにも思える。
 子ども時代は同年齢の友だちのほか、少し年上の小学生や家族以外の大人との関わりが必要なのではないか。親以外の年上の人との関わりが、子どもの一生を変えることだってある。それができなくなるほど、互いに監視し合わなくてはならないのか、それほど人は信じ合えないということなのだろうか…。
 卒園児たちが卒業入学の挨拶に来てくれる今のシーズン、この豊かな交わりがいつまでもつづくように祈るこの頃である。