早川寿美子 園長便り

芽ぶきの季節に

2012年3月1日発行「おたより」第429号より

 昨日、珍しく雪が朝から降り積もり、保育園の庭の木々が美しく、池のほとりも真っ白にほっこりと優しげな風情に変わっていって、次々に舞い降りる雪にうっとりと見とれてしまっていた。3月中には正式に譲っていただけることになった南畑牧場も、真っ白な雪に赤い屋根が可愛らしい姿を見せているのかしら、と想像したりしていた。
 今日は暖かな春らしい陽射しが降り注ぎ、やっぱりもう春、卒園や進級の子どもたちが、嬉しさと緊張に心ときめくときが、暖かな春先であって良かった、などととりとめもなく思いめぐらしている。
 昨年の秋には、初めて昔の卒園児の結婚式に呼ばれた。「彼」や「彼女」を紹介してもらったことはあったけれど、式に招待されたのは初めてで、幼いころのあれこれを思い出しながら出席した。今春卒園する子たちは、これからどんな人々と出会って、どんな人生を歩んで行くのかを思うこのごろである。これからも何かで繋がっていけると良いなと思いつつ、新しい生活が楽しくて、普段は保育園のことを思い出すことがないのを喜ばなくてはいけないな、などと思いながら、まだ雪が残っている庭を眺めている。
 雪の日の礼拝で、私は子どもたちに、昔、保育園であったことを話した。今日みたいな大雪の後、園庭で遊んでいるとき、週1回講師として来ていた目の見えない先生がやってくるのを見た子どもが、走ってその先生に近づき、「S先生、ボクのここにつかまっていいよ」と言って、肩につかまらせて入り口に誘導した。誰かが、雪の日には、目の見えない人は耳で場所を確認しているようだし、道の様子が違っていると歩きにくいでしょう、などと話していたのを聞いていたのかもしれない。
 私は雪や雨の日になるとよく、このことを思い出す。先生に言われたわけでもなく、子どもたちは自分で気づき、この講師に対して、自然に関わってくれた子どもの姿に感動するのである。
 この話を子どもたちに話そうと思ったのは、もう一つ思い出したことがあったから。それは神谷美恵子氏の書かれた本の中で、彼女が若いころ、全生園の礼拝にオルガンを弾きに行ったときのことである。彼女は「らい」の方々の様子を見てショックを受ける…。それはこのような辛い病気を与えられている事実、何故この方々でなければならなかったのか、私自身ではなく! というものであった。辛い苦しいことは誰にも起こる。私自身にも起こることである。しかし、今、病の苦しさだけでなく、差別の苦しさと戦わなければならない現実が何故、この私でなくあなたが引き受けなくてはならないのか…、というものだった。そして彼女は、それから自分の病気や、引き受けなければならなかった様々な仕事があったにもかかわらず、強く思い続け、長い時を経て医師となって、らい患者の方々のためにやっと働くことになったのは、彼女の晩年であった。
 これから巣立つ子どもたちが、出会う人生が、苦しいことがないのを望むのは当たり前だとは思うけれど、深く人生を味わうということは、辛いこと、悲しいことを通してやってくるものだとも考える。そのとき、生きる勇気、超えられる強さが、どう育てられるのか、周りの大人たちが深い愛を持って考え、育んでいかねばならないのではないかと思う。
 春は庭と草木の芽も動き、新しい命が育つ季節。子どもたちの命が一層輝く季節の始まりとなって欲しいと願っている。

新しい子どもの庭を

2012年2月1日発行「おたより」第428号より

 「転んでも手がでない」などが話題になり、子どもの体に異変が起こっているのではないかなどと騒がれたのは、もう20年以上も前になるだろうか。そして現代、生きる力、意欲が乏しい若者、人と人との距離が取れない、人間関係をうまくつくれないなどと言われ、幼児時代から成人になっての職場関係など、人間関係の不器用さが気になるというようなことをよく聞く。
 なぜそんなことが言われるようになってきたのか…を考えるとき、やはりこの40~50年間の環境の変化が、子どもに与えてきた影響を考えざるを得ない。よく言われる1970年以降の経済の急上昇が環境を破壊し、生き物としての子どもたちの育ちに大きな影響を与えてきたと言えるのだろうと思うし、田舎と都市とで半々位に生活をするようなシステムを作れないかと考える学者、また、都市には中心部に何ヘクタールもの広い公園を作って、とくに幼い子たちに自然体験ができるようなことを、国策としてするべきと主張している教育学者もいる。
 しおん保育園も、近くの特別支援学校の森をお借りして、森の活動を続けてこられたが、もっと子どもたちに自然を!と思い続けてきた。
 ポニーの広場での農業体験を通して、子どもたちも随分、土の豊かさを知ることができたと思う。
 冬は零下30℃近くもなる時代の札幌に育った私には、ポニーの世話を楽しそうにしている子どもたちの姿が、昔、道産子が薪や石炭、大根などを運んで来てくれたこと、その馬に嬉々として水を汲んでやったり、とうきびの食べ終わった芯や皮などを与えたことなどと重ね合って、懐かしく思われる。そして、ますます、もっと動物や植物と触れ合う場所が欲しいと考えるようになって来た。あちこちでそんな思いをしゃべっていたら、園医の小肩先生から、立教大学の馬術部の馬場が売りに出されている、しかも、ポニーの広場近くだということを聞き、1年がかりで何とか売っていただける話がまとまった。資金計画も、運営も大変なことが多いけれど、何とか子どもたちが、小動物やいろいろな植物と関わって生きていける場所として、整備していきたいと思っている。
 幼稚園の創始者と言われるフレーベルは、子どもの教育施設をつくるとき、神様の大切な花たちが育つ場所、すなわちキンダーガルテン(子どもの庭)と言った。私たちも、新しい子どもの庭をゆっくりつくっていきたいと思っている。
 場所は車で約40分のところなので、今後整備計画が少しづずつ形をとって来たら、ご一緒に子どもの庭をつくりませんか。

希望をもって

2012年1月16日発行「おたより」第427号より

 皆様、きっとご家族でゆっくりお正月を迎えられたことと思います。あけましておめでとうございます。
 昔のことを思い出すのは、年をとった証拠と言われますが、私の幼い頃の正月を思い出します。新しい年神様をお迎えするのだからと、元日には家族全員が新しい下着をつけ、幼い頃は子どもは全員、いつもは洋服の母も着物を着て、父を先頭に神棚と仏壇にお参りをしてから、お雑煮と漬け物、酢の物という簡単な正月膳を囲みます(北海道では31日の夜を年越しと言って、おせち料理を囲んで家族が集まり盛大にお祝いしますので、元旦は質素です。これってクリスマスと似ていますよね)。そのとき、子どもたちは、父から新しい一年間、家族協力して働くこと、仲良くして母やおばあさんの言うことを聞いて手伝い、よく勉強をすることなど、厳かな口調で言われます。そのあと、一人ひとり父のところに行って、お年玉を両手で受け取り、頭を下げて「ありがとうございます」と言って自分の席に戻り、元旦の朝食をいただくのが慣わしでした。年神様が常緑の松に降りられて、新しい生命を祝ってくださるということで、今とは違って正月で一つ年をとります。父からお年玉を渡されるときも、「お前は今年○歳になったのだから…」と言われました。12月生まれの人は、1カ月も経たないうちに2歳になるのは不思議だな、とよく思ったものです(ちなみに0歳児という言葉にずっとなじめなかったのも、生まれたときに1歳という年を与えられた存在という思いが、幼い頃から体に染みついていたということでしょうか)。
 昨年は日本中が命や支え合いの大切さについて考えさせられた年です。我が園で毎年クリスマスに上演する影絵劇に、トルストイの「人は何によって生きるか」を思い切って取り上げました。トルストイのメッセージ、<人は自分の人生に於いて、いつどんなことが起こるのか、自分がいつ死ぬのかさえ分からない。しかし神は、人間を互いに愛し合うように創られた。そして愛によってしか生きることができない存在なのだ>ということを、子どもたちだけでなく、我々、大人たちの心に響かせることができたら、と思ったのです。
 人はバラバラに生きられる存在ではなく、互いに助け合って生きる存在、そのように作られた存在ということを信じ、今年の新しい年を希望をもって、歩みたいものです。

アドベントに

2011年12月1日発行「おたより」第426号より

 アドベントの季節になった。まったく師走とはよく言ったものだと思いながら、心せわしく過ごしてしまう12月。アドベントの時は、こんなに心騒がしくして良いときではない、と思うことしきりではあるが、忙しく走り回っている毎日である。
 年長さんと一緒に過ごす、10回ほどのページェント(聖誕劇)の練習の時間を大切にしたい と願いつつ、あれこれせわしない心をひとときホッとさせ、子どもたちとともにいられることを楽しんでいる。今年は年度途中の入所で、ページェントを経験していない年長さんが2人もいるのに、とまどいながらも、しっかり参加してくれているのが頼もしい。
 毎年、役決めはいろいろ皆と話し合うのだが、その年によって傾向があり、なぜか今年はヨセフさんに人気があった。長いこと女の子は天使、博士は男の子に人気があったが、今年は博士に初めて女の子が参加、今までになくヨセフに人気が集まったのは、お父さん役にあこがれを持つ男の子が多いとも考えられる。そういえば今年は、おやじバンドが張り切っていたし、いろいろな行事でパパたちが頑張って目立っていたもの…など、いろいろ考えると、おもしろい。
 4人のヨセフ役の立候補で難航した役決め、ジャンケン! と言うので、もう少し話し合ってみたらと言うと、「でもナー」などと言い合いながら、ヒソヒソ、「ナーどうする。オレやりたい」「皆そんなこと言ってたら、4人もいらないし」…。2人のマリヤさんは双方譲らずにらみ合いが続く。ついにまわりから「ジャンケンで決めたら」の声。「ジャンケンで負けたのに、まだ怒ってる!」など言いながら、何とか決着。一方のヨセフの方は、一人の子が「仕方がないよ、オレ羊飼いでいいや。だって羊さんたちかわいいもの」と、候補者から降りたのが印象的だった。
 毎年、繰り返されるこの役への思い入れとその解決の仕方はおもしろく、考える力、折り合っていく力が育っているのをうれしく思う。
 アドベントは、この世に平和をもたらすために来た神の子を思うときである。
 先日の礼拝の時、私は「留岡幸助」が北海道で作った「北海道家庭学校」と、その、留岡幸助から洗礼を受けた一人の元看守が、刑務所から出ても住むところさえない人たちのためのお家である「家庭学校」を作ったことを話した。随分難しい話だと思ったのだが、2歳児を含めてチャペルに集まっている子どもたちは静かに聞いてくれた。
 先日ラジオ深夜便で、映画監督の山田火砂子さんが今回撮られた「留岡幸助」への思いと、それより先に精神薄弱児と言われた子たちに、夫とともに一生を捧げた「石井筆子」を撮られた時の話、そしてご自身も知的障がいを持つ我子とともに生きてきたことへの思いを話されて感動したから、ぜひ、子どもたちにこの話を聞いてもらいたいと思い話したのだが、子どもなりに何かを受け止めてくれた様子をうれしく思った。鬼典獄と言われた刑務官が留岡幸助と出会いクリスチャンとなり、クリスチャン典獄となって劣悪だった監獄改良を進め、罪を犯した少年釈放者の保護事業としての「家庭学校」を立ち上げるのだが…。彼が関東大震災の時、牢屋から囚人たちを逃がした時の話は有名である。その時、囚人たちが有馬典獄を裏切らないため、必ず戻ってくるよう、自分たちで自警団を組織し、協力して全員、再び牢獄につながれに戻ったのである。このことは、愛は罪と罰を超えるものとして、私は若いころ感動した話である。
 「正義の戦い」などは、憎しみや殺し合いを生み、愛は平和を生むのである。平和を作り出すものとして人は生かされている。そして、愛は愛ある家庭を中心として育まれるという留岡、有馬両氏の生き方をもう一度思い、見つめながら、キリスト誕生を待つとき、アドベントを過ごしたいものである。

青空の下で

2011年11月1日発行「おたより」第425号より

 運動会は素晴らしい青空の下、皆様の御協力で楽しく行えました事、感謝します。ふるさと言葉で応援合戦をしようと、それぞれの大漁旗の下、地方ごとに集まったとき、一人の方から「私も北海道ですけれど、子どものころから『まていにね』と言われてきましたよ」と言われました。以前にこの欄で、「まていな仕事」「まていにしなさい」と言われてきたが、札幌の友だちに聞くと、自分はそう言われた記憶がないと言われたので、私に口ぐせのように言っていたひいおばあちゃんのふるさと、福井県の言葉なのかもしれない、と書いたことがありました。それを読んでのお声がけを、とてもうれしく思いました。他にも、ホームページで読んだという方から、「私の祖母も福井の出身で、この言葉をよく言っていました。そして言葉どおりに、まていな生活をした人でした」という内容のメールをいただいたこともあり、何か幼い時代の懐かしい人に再び会ったような思いがすると同時に、又「まていな」という言葉から人の繋がりが広がったように思いました。応援合戦では、北海道民は少なかったけれど、一緒に大きな声を出し、何か一体感のようなものを持てたし、他の県の旗のまわりでも同じような、ある種特別な親しみのようなものが感じられ、胸の県名と名前のカードを見ながら、お互いの在所の確認などをしている様子がほほえましく思えました。
 昔あそびのコーナーでも、私の子どものころはこんなふうに遊んだよ、などとおしゃべりがはずんだようで、運動会の後の反省会でも、職員達から感動した、楽しかったという感想が多く述べられました。昔遊びコーナーでは、いろいろな人が自分たちの遊んだ遊び方や、遊びうたを伝え合う内に、遊んだ場所や風景までが思い出され、やがて同じふるさとの同じような体験の思い出ばなしにまで広がっていたようですが、そういう雰囲気は当人同士だけでなく、温かい親しみの感情の広がりとなって、あの青空の下に広がっていったような気がしています。
 先日、昔北海道に何年かいらした人から、初めて北海道に行った時、ここは東京を中心とした日本の一地方でなく、ほかの外の国に広がっている場なのだと感じた。それくらい風景や、吹いている風などが、東京や本州とは違う何かがあったと言われました。私は50年も前に東京に出てきましたが、自分を「異邦人」と感じた事が何度あったことだろうと思いました。東京で珍しく雪が降ると、ワクワクしたり、雪で遊んだ子どものころを思い出したり、子どもの頃の家族とのあれこれを思い出したり、何かじぃんとしたものです。アダモの「雪が降る」を聞くと、ふっと涙ぐむ事もあったと友人に言ったら笑われた事もありました。家族のほかに同郷というだけで、何か優しい思いが生まれるという、人とのつながりは、何かとても愛おしいものに感じるのです。このような思いは何故起こるのかをふと思いました。
地球が生まれてからの歴史の中で、生命が生まれ、現代に至るまでの間、生き物は環境にさまざまなやり方で適応し、進化してきて、今、こうして東京にいる私たち。適応とは、互いに関わり合いながら、生命の輪を広げて来たということでもあるでしょう。懐かしさとは、もしかしてそのような根源的なものにつながる感情なのかもしれないと思ったのです。
 子どもたちが様々に豊かな体験をすることによって、大人になったある時、幼い時のあれこれこれを、ふと、例えば今日のような青い空を見上げた時に、思い出してくれると良いなぁと思いながら、秋の空を見上げました。

しおんの運動会

2011年10月1日発行「おたより」第424号より

 年長さんの竹のぼり(競技名は「やしの実とり」)の練習が佳境に入り、皆の応援の声も大きくなった。
 夏の合宿で大きく成長を見せてくれたところで、木のぼりやベランダの竹をのぼり始める年長さんが多くなる。年長さんは夏の合宿では、家族から離れて自分で頭を洗ったり、入浴したり着替えたり、食事の支度を手伝ったり、7時間にもおよぶ登山をしたり、という体験から大きな自信を得て、これが竹のぼりへの意欲にもつながっているのである。竹のぼりの練習を見た滝山しおんの年長さんたちが、「かっこいい」と興奮して、自分たちの運動会で行うはしご登りにとても意欲を示したという話を滝山しおんの運動会のとき、先生から聞いた。かっこいいと刺激され、互いに意欲的になっていくことは、年長児になってから強く出てくる気持ちである。しかしそれは、まだまだ共に参加してくれる大人、一緒に体験してくれる人がいることが必要であり、共に頑張ってくれる他者がいることで安定し、意欲がより強くなり、さらに自信につながっていくのである。憧れを持って見つめる年中さんたちの目、一緒に頑張ろうと誘ってくれる大人たちの目と手があることが重要である。
 8メートルもある竹にのぼらせることが可能なのは、毎日のマラソンや健康体操の先生などの訓練によるのね、と言われてびっくりしたことがある。竹のぼりは、この保育園が開園したときからで、「訓練」という言葉はたぶん、我園のスタッフの中にまったくないであろう。保育園の運動会を考えたとき、私の願いは、家族や私共スタッフと子どもたちが秋の一日、互いに体を使って触れ合って、思い切り子どもと共に遊ぶ日にしたいという思いであった。大人も子どもに戻って騒いだり、大人としてかっこいいところを見せたり、互いに認め合い、発見し合うことができる日が運動会のイメージであった。私が子どものころに見た綺麗な映画に『ピクニック』というのがあって、湖のほとりに町中の人々が集まって、赤ちゃんからお年寄りまで楽しむという場面が本当に楽しそうで、子どものようにハメをはずして遊ぶ紳士たちや若者たちの姿が印象深く、狭い園庭でそんな風なことができたらと思った。また、皆でご飯も作って食べられたら…という思いから「しおん鍋」も会の始めにすることにしたのである。
 初めて竹のぼりを見た一人の園長から、「よくお母さんから危ないって反対されなかったですね」と言われたが、子どもはのぼりたくないときはのぼらないし、それは自分で決めることであり、私たちも父母の方々も子どもを信じているので不安はない、と返した。これも運動会の前に合宿があり、年長さんたちは合宿を通して、生活の中で自分を知る様々なチャンスを与えられた体験が大きいと思っている。
 山登りで、どうしても今の自分に越えられないことに出合い、それを越えられた友だちに「こいつはスゴイやつだな」と感じたり、川遊びで足を滑らせて危ないと思ったとき、友だちに手を差し出してありがとうと言われたり、といろんな体験の積み重ねが自分自身と他者を理解し、本当の意味の自信につながっていったのだと思う。運動会がさらに新たな発見のときとなって欲しい。
 大好きな家族と共に、大好きな友だちと一緒に遊べる日が、子どもにとってどんなに貴重であり、嬉しく、また豊かな一日になることか。そんな一日となれるよう願いながら、準備を進めている。

夏の宝物

2011年9月1日発行「おたより」第423号より

 ゆり組さん(しおん学園)の北海道合宿も終わりに近づき、Sちゃんから8月に入っての連絡がないまま、ゆり組のプログラムは終わった。後片付けのため合宿所に残った私の携帯に、やっとSちゃんから連絡があった。

S 「園長先生! ゆり組さん、もう帰っちゃった? 先生は今どこ?」。
私 「だって、帰る日にちもあなたに教えてあったじゃない。それまでに会いに来てくれるって言っていたので楽しみにしてたのよ。ゆり組さんは帰ってしまって、私もあさっては東京に帰る予定」。
S 「ごめん。旭川の牧場に○○日までいて、札幌に戻って先生たちに会ってから、岩手にボランティアに行く予定だったんだけど、ここがあんまり楽しくて居心地がいいもんだからつい居ついちゃって」。

 彼女は「園長から保育園時代に北海道が素晴らしいとすりこまれたから」と言って、大学卒業後とにかく北海道へ行きたいと、北海道大学の農学部に就職した。忙しくて休日も取れないような日々をとても楽しんで過ごしていたが、昨年結婚し、北海道を離れたと聞いていた。それが、夫君をおいて北海道で牧場の手伝いをしてると言う。しかも「その居心地が良い牧場」の名を聞いて、またびっくり。旭川近くの「神居(かむい)」というのでまさかと思ったのだが、そこは20年ほど前、私が何度かお訪ねした、斉藤さん一家が経営しておられる牧場であった。
 斉藤さんという方は「牛が拓く牧場」という本を出され、NHKラジオで講演されたこともある方で、本当に素晴らしい牛飼いである。彼は10代で、とりわけ厳しい山地の「神居」に移住し、牧草はおろか、熊笹ばかりで地の草木も育たないようなところで、ひたすら自然の力を信じて牛飼いをして来た方である。私は当時、彼と会ってとても感動したことを「おたより」に書いた記憶があった。それで保育園に電話して、20年前の「おたより」の9月号を調べられるかと聞くと、倉庫にファイルされていたとすぐ返事があり、それをSちゃんにメールしてもらった。翌日、Sちゃんから、もう80歳を過ぎている斉藤さんの若き姿を読んであげたこと、懐かしんでくれたとの電話が来た。
 卒園児が、昔私の出会った牛飼いの斉藤氏と20年の歳月を経て出会い、彼の生き方に私と同じように共感して、この夏、その手伝いをしていることに不思議な感動を覚えた。
 この夏のとても大きな宝物である。

藻岩山にて

2011年8月1日発行「おたより」第422号より

 年長さんの合宿と夏祭りに始まる、しおんの本格的な夏。合宿では、おうちの人と一緒に作ったカンテラを持って、近くの神社まで歩いて行きました。とても神秘的で美しい光の行列でした。それと同じように、カンテラを持って夏祭りにも年長さんたちが、やぐらの周りを回ってくれましたね。7時間を超える登山も互いに励まし合いながらやり遂げた年長さんの姿に、私たちスタッフも随分励まされたことでした。
 夏祭りではオープニングに、初めてオヤジバンドが出演し、盛り上げてくれました。お父さんたちの「熱さ」に負けず、気温が急上昇の園庭に集まって来られた家族の声援に応え、スピーカーもオーバーヒートするというアクシデントもありながら、熱気に溢れたオープニングでした。夏祭りのハイライト、オヤジソーランは卒園児の父も何人か入ってカッコイイ姿を見せてくださいました。卒園児が入っている3つのグループ(野球チーム・和太鼓・少林寺拳法)の初参加や、東北支援のチャリティーコーナーなど、父母の方々や地域の方々が、本当に活躍してくださり、ともに楽しんでくださいました。
 こうしてしおんの暑い夏は始まり、今、私は例年どおり、涼しい北海道で高校生以上のゆり組さんたちと過しています。今年は学園合宿で初めて、トモエ幼稚園に行きました。この幼稚園は20年ほど前、「人間環境学会」という奇妙な「学会」の案内が来て参加したのが最初の出会いでした。幼児と関わる環境…。子どもがいろいろな人々との関わりの中で充分に遊び、互いに愛し合うことが出来る生命を育てることを、幼児教育の基本において実践しておられるトモエ幼稚園の木村園長に共感し、数年の間、何度か札幌に来て、トモエにお邪魔して来ましたが、忙しさにかまけて、ずっとご無沙汰していました。「こんな時、木村先生ならどうお考えになるだろう」などと思うことも多く、今回うかがえて本当に懐かしく、我が家に戻ったような感じがしたのでした。
 今回のゆり組さんの訪問が偶然、幼稚園の3泊4日の家族キャンプ(トモエ祭り)の初日と重なっていたのですが、在園児だけでなく、卒園児も、またその知り合いも、つまり参加したい人は誰でも参加出来るということで、仲間に加えさせていただくことになりました。トモエに着くと、広い庭はさながらテント村で、それが、どんどん増えていっているというふうでびっくりしました。休みが取れない父親はここから3日間仕事に通う人もいらっしゃるということで、またびっくり。どなたがスタッフか親か判らないまま…、でも、次第にそれにも慣れてしまいました。
 園庭といっても仕切りのない園舎と、大ビニールハウスが、沢あり崖ありの森の中にあるのですから、大自然の中に車がつくたびに、集落が次第に出来ていくという様に見惚れてしまいました。札幌だけでなく、大阪ナンバーだったり、千葉ナンバーだったりする車の量の多さや、さながら故郷の村に大家族が集まってくるといった状況の中で、我々も次第に違和感もなく、自分たちも自然に楽しんで過ごすことが出来たのでした。集まってくるさまざまな年齢(0歳から小・中・高校生)の子どもたちが本当に良く遊んでいる。各々自由にのびのびと主体的に遊んでいる姿には、見ていて惚れ惚れさせられるようでした。しかも久しぶりに会う仲間同士、遠慮がない。小さな子たちも自分のやりたいことをちゃんと主張する、納得しないことは妥協しない姿などに、我園のスタッフたちは感心すると同時に、それでも中学生くらいになると小さな子とも良く付き合い、細やかな心配りが出来る姿に感動していました。
 いろいろなお母さんたちとの関わりの中で、あれこれ世話を焼いてくれる人はいないけれど、くっつき過ぎない、ほど良い距離の親切に居心地の良さを感じたスタッフもいて、我々の保育園での関わりについても話し合ったことでした。
 テントを家族単位で張り、いろいろなところでバーベキューなどをやったり、広い園舎の中の台所で、各々の家族が食事づくりをしたりしながら、まさに井戸端会議が次々と繰り広げられたりしている間、お父さんたちがビールサーバーの設置をしたり、子どもたちとダイナミックな遊びをしたり、テキパキと働いている姿はしおんの夏祭りにも似て、家族みんなが互いに楽しげに働いている姿の賑やかで、ワクワクするけれど、温かな時間の心地良さを楽しんだのでした。
 生きていることが楽しくてしょうがないという子どもたちの姿と、それをゆったりと支えている大人たち。とても幸せな光景でした。一緒に遊ぶことがこんなに楽しくて仕方がない、仲間といることがこれほどに喜びに満ちたものだということに、私は木村園長の祈りが込められているように感じたのでした。
 私が生まれて中学まで過ごしたところは、札幌の藻岩山の麓、山鼻という所です。このトモエは以前は山中だったところにあるのではないかと思いました。私が子どもの頃住んでいた藻岩山の麓から、山菜や山葡萄採りに行くなど山の恵みをいただいていたのは、もっとこの山の裾の方だったかしら。開発されて随分変わってしまったけれど、やはり、しっかりと豊かに私たちを守ってくれている藻岩山に感謝しつつ、トモエを後にしたのでした。

「6月の花嫁」

2011年7月1日発行「おたより」第421号より

 5、6月は結婚式が多く、お祝いに招いていただいたのが三組で、それぞれに幸せのお裾分けをいただいた良い会だったが、突然決まったある結婚式は、特に感慨深いものがあった。花嫁は北海道から上京して学校に入り、東京の保育園で保育者としてのスタートを切った人で、その後、札幌に新設された老人施設に就職したという人であった。センター長と職員3人という小さなその施設に、私の叔父が入所したのがご縁で、今に至るまでのお付き合いが続いている。叔父は子どもがおらず、叔母が亡くなってから、建設中のそのマンションに入ることを決め、私も足かけ3年の間、度々そのマンションに泊まり、叔父のもろもろの相談相手になって来た。
 その時、まるで本当の孫のように可愛がっていたのが花嫁の満里さんであった。「昨日は遅くまで、一緒に満里ちゃんがゲームをやっていった」と、うれしそうに話すこともあり、勤務が終わってから、疲れているのに80歳過ぎのじいさんと魚釣りのTVゲームをしてくださるということに感動した。センター長の老人施設に対する真摯な姿勢にも共感をして、叔父が亡くなった後もお付き合いを続けてきた。会社の方針と合わなくなって、センター長のYさんが辞任した時、満里さんが一緒に辞めたこと、満里さんとYさんの息子も加わってNPOを立ち上げるなど、何かと相談や連絡をいただくことが多く、Yさんの息子さんと結婚することを聞いた時、まっ先に思ったのは、叔父が生きていたら喜ぶだろうということであった。
 いろいろなことがあって結婚式が出来なく、「長い間待たされた」式が、やっと実現したのが6月。しおんのヴァイオリン教室の発表会の日だった。センター長の息子の祐君は、しおん学園夏の北海道合宿では、毎年ボランティアに来てくれ、学園のみんなとは顔なじみである。仲間とライブ活動も続けて、ボーカルと作詞をしており、CDも2枚出しているが、披露宴の中で彼が妻のために作った新しいラブソングを演奏し、密かに作ってあったCDを彼女に捧げた。また、上司でもあり新しい母になったYさんからの満里さんへの思いのこもった挨拶に、涙がこみあげた。引出物の手作りコースター一枚一枚に描かれたひまわりの花と書は、新しい娘となった満里さんへの愛に満ちたものだった。「ひまわりは満里の好きな花」のシールが貼られ、美大を出ているYさんの素敵な絵と味のある文字に込められた喜びが、ひしひしと伝わって来た。世界一幸せな「花嫁さん」だと思った。
 園長室で、出席できなかったバイオリン発表会のCDを聴きながら仕事をしていると、「ただいまー」と学校から帰ってきた学童のMちゃんが、一瞬ハッとした顔でCDがかかっている方へ目をやった。やがてニコリと笑ってうなずくように私を見ると、静かに戸を閉めて学童の部屋へ向かって行った。Mちゃんも4年生。随分大人っぽくなったと思う。目で、表情で、私ととってもたくさんの会話ができたのだ。彼女が一生懸命演奏した発表会。そのCDを園長室で聴いていることに、発表会に行ってやれなかった私を許し、満足もしてくれたのだ。「あっ! これ発表会のでしょ!」というかわりに、チラリと私を見やったまなざしが眩しかった。
 いつの間にか、Mちゃんがこのような細やかな感じ方、思いやり、心配りなどが育っていることに感動を覚えながら、CDを聴いていた。

親子での舞い

2011年6月1日発行「おたより」第420号より

 昨日、友人からの招待で久しぶりに台風が近づいているという雨の中、能楽堂へ向かった。B君の独立記念能の舞台である。思えば二十数年前のことである。友人から「妹の子が遅れているのではないかと言われたらしいの。あなた見てくれない」との電話があった。「T先生にも見ていただいたんだけど、先生は大丈夫っておっしゃったけれど心配で」。T先生は当時、お茶の水女子大学教授で、彼女の師でもあり、付属幼稚園園長をされている方なので、それなら何も心配しなくても良いのではないかと言ったが、やっぱり心配らしく、一度園に連れていくと、家族中でやって来た。B君が2歳くらいのころだったと思う。B君は旧園舎の「船のコーナー」で実に楽しそうに繰り返しよく遊んでいた。B君が何について「遅れている」とどこで言われたのかは忘れてしまったし、保健所の医師か保健師か、保育園入所時だったのか、とにかく「専門家」に言われたということだったように記憶している。親や大人たちの心配をよそに、黙々と遊ぶ子の姿から異常は感じられず、彼らの住んでいる区にある保育園を紹介することにした。もし万一心配なことが今後あっても、その保育園の近くに乳幼児の治療教育に熱心な素晴らしい小児科医がかかわって、診療と乳幼児の療育をしているところがあることを思い出したからである。その保育園は、モンテッソーリの子どもの家として、子ども一人ひとりを大切に、丁寧に、子どもの活動を援助して来た長い歴史があり、私も当時、多少かかわりがあったので、B君に合うのでないかと考えたのであった。
B君はその後、東京藝術大学を卒業してから、父上と同じ師のところに内弟子として修業されていたという。親子二代が師事した師匠が、始まりに演舞の場を清めるという特別な意味がある素謡を演じられた。厳かな、凛としたものであった。
 最後の能では、それぞれ前シテと後シテとして親子で演じられたが、六十代に入った父上と共に唐獅子を舞った二十代のB君が、激しい動きに肩で息をしているのが見えた。もっと激しい動きをされている父上の獅子に、ほとんど乱れを感じなかったのはさすがだと感じさせられた。
 それにしても、幼いころのBくんのことを思い出すと、「専門家」と言われる人の何気ない言葉が、どれだけまわりの大人たちに大きな影響を与えるものかを考えなければと思う。この二十年間、主に舞台の上で見てきたB君、見る度に「立派になった!」と感じて来た。一つの芸に打ち込み、偉大な父上を見上げて精進してきたB君の真摯な姿を思うと、伝統に支えられたシテ方の家の在り方というだけではなく、親子の在り方、教育の在り方を思わされたのである。遊びたい盛りのB君が父上のあまりにも厳しい稽古に、どうにかなってしまうのではないかと考えたお母様が、何とか手加減してもらおうと話したら、叱られたばかりか、B君もお稽古は泣きながらでも止めたくないと言うのよ、と言われていたことを思い出す。
 友だち親子、友だち感覚の先生と生徒、フレンドリーな関係が強調される職場の先輩後輩などが普通になり、望ましい関係であるかのような現代、厳しさの中で磨かれた美しさを思った。
いつもは和服姿の年輩の方が多い会場に、ジーパン姿の若い人が目立ったのは、藝大時代の友人たちなのかと微笑ましく思った。冷たい雨風の中だけれど、何かすっきり晴れやかな一日であった。

「まていな生活」

2011年5月9日発行「おたより」第419号より

 先日あるオペラ歌手と話す機会があった。彼はある地方の観光大使という肩書も持ち、自宅のそばで自然農法の畑作りをやっておられるとのこと。彼の作る野菜はおいしいと歌仲間に定評があるそうで、採れたての野菜でよくパーティをやるそうである。自然農法を始めたころは、「おばあちゃんがすぐ草むしりをしてくれてしまって大変だったんだ。草が畑を守っているんだっていくら説明してもわかってくれなくて…。で、僕の畑を別の土地に耕すことにして、やっとわかってもらえた」と言われた。草ぼうぼうの畑でも、味の深い作物が取れることを知って、おばあさまなりに納得したのだろう。でも、ご自分は雑草一本もない農作をされておられるご様子を聞き、私は私のひいおばあさんをその方と重ね合わせて思い出した。私のひいおばあちゃんは明治生まれで、いつも着物を着て、ちょうどサザエさんの中のおばあさんと同じ髪型、襟元に真っ白な手ぬぐいを着けている人で、口癖のように「まていにな」と私に言う人だった。きっと彼のおばあさんも、まていな方で、手間暇惜しまず何でもなさる方であろう。だから畑仕事でも草一本生やすことは苦痛なのではないかと思われ、きりりとしたその方の姿まで想像され、微笑ましさと懐かしさを覚えたのであった。
 先日、「天声人語」で「までい」という東北の方言について紹介されていたが、私の曽祖母は福井県出身である。また、北海道の方言でもなさそうで、札幌の私の友人たちも、その言葉は知らないという。ていねいに、ていねいな仕事をしなさいという意味で、おばあちゃんが「まていにな」と、いつも私に言っていたし、彼女自身の生き方がそんな風であったのを懐かしく思い出す。
 ガスも水道もなかった時代である。ご飯を羽釜で炊き、おひつにあけた後のお釜の底のお焦げを子どもたちは大好きで、醤油を垂らして小さなおむすびにしてもらうと、その香ばしさを楽しんだ。おひつのご飯は一粒も残してはいけなかった。少しご飯が余ると、干してお菓子にしたり、甘酒にしたりしてくれた。着物の洗濯糊にもしていたようだし、子どもたちも紙細工等をして糊が必要になると、よくご飯粒をもらってくっつけたりしていた。お米を洗う時も水は捨てない。手押しポンプで汲み上げる水は貴重なものだった。ぬかの入った水を取っておいて床拭きをした。雑巾がけをした水は、最後に庭の木々への水やりに使われた。今考えると、ゴミ箱に捨てるようなものはほとんどなかったと思う。何もかも徹底して大切に使い切る。零下三十度にもなる札幌でも、ストーブは居間だけ、布団には湯たんぽ、その湯も朝、顔洗いに使った。「までいに」と濁らず、「まていに」という言葉は東北地方だけでなく、もっと昔の日本の暮らしの中に生きていた言葉だったのだと思う。
 電力がこの夏足りないとか。やはり原発がないと、とかいう言葉を聞く毎に、このような暑さをもたらしたのは何かと考える。そして、まていな暮らしをもう一度考える機会として、このエネルギーの問題を考えなければならないと思うのである。
 畑に草一本生えさせないために、手で草を取る代わりに農薬をまいてきた農業。消費することが豊かさの象徴と思って走り続ける中で、真の豊かさを見失い、まていに生きることの美しさ、豊かさを失ってしまったのではないか、と思ったのである。
 今度、新じゃがいもが採れるころ、彼の自慢の草が耕している畑を見学させていただくことになっている。おいしい新じゃがをいただき、近くのおばあちゃまのきれいな畑と、それを耕しているおばあちゃまにお会いしたいものだと思っている。

4月の子どもたち

2011年4月15日発行「おたより」第418号より

 「先生ありがとう!」電話の向こうからかわいい声。「誰かなー」「Kだよ」。つい一週間前まで登園していたのに、電話の声はもう一年生。「あー、随分お兄ちゃんの声になったのでわからなかったよ」「あのね、ありがとう」「???」。次に弾んだ声が響いて、お母さんが小学校入学の祝電へのお礼を言ってくださった。他市へ引っ越されているので度々とはいかないけれど、行事には顔を見せに来てくださるとのこと。Kちゃんは第一子の男の子なので、ご家族にとって何もかも初めてで、喜びもひとしおであろう。小学校入学は幼児時代を過ぎ、もう少し広い世界に触れる第一歩。お母さんの弾む心が伝わって来た。その日、新しいランドセルを背負って、きりっとした顔を見せに、たくさんの子たちが、次々とやって来てくれた。
また、小学校卒業、中学入学と数人の子たちがそれぞれ、心持ち大人っぽくなった姿を見せてくれた。男の子も女の子もちょっぴり照れながら、いろいろおしゃべりしてくれる。「○○先生は?」「○○先生とオレ、年長さんの時こんなことしたよ…」など、懐かしそうに話してくれる。子どもたちの懐かしい顔を見に、かかわりのあった先生方が次々に玄関に顔を出してくる。毎年のように、このような風景が見られるのは、4月の忙しさに心も身体も弱りかけているころの元気を分けてもらえる、卒園児たちからのプレゼントである。
 東北を襲った大変な災害、続いて起こった原発の恐ろしさにさらされている今、健気に咲いている小さな野の草花たちに癒されていることを感じる。震災の後の休日は、被害を刻々と知らせるラジオにうちのめされる思いで自室に座り込み、音楽が聞きたい、としきりに思い続けていた。
 今週土曜のチャペルコンサートで演奏してくださる小澤さんたちは、チェルノブイリで被災しておられ、また、先々週演るはずだった東京上野文化会館での演奏も、英国人の共演者が自国から被ばくを恐れて足止めされたとのことで、延期されたという。しおんでの演奏は大丈夫ですから、と言ってくださったが、本当に残念で、こんな時だからこそ聴きたかったのに、とやり場のない思いであった。
 このチャペルコンサートの後、おやじの会が「しおんおやじバンドのチャリティーコンサート」を企画してくださった。ありがたいことである。
 先日、長い間しおん保育園の小児歯科医を務めてくれていた先生と、久しぶりに電話で話した。彼女の子どもたちは小児歯科、小児科、産科とそれぞれ子どもにかかわる医師である。「私たちが愚かだったのよ。原発は絶対、どんなことがあっても反対すべきだったのよ」と、彼女は繰り返し言った。
 ゆきやなぎ、けやきの新芽、かいどうの花、散り始めている桜の花びら、そこに遊んでいる子どもたち、そして卒業、入学のあいさつに来てくれた子どもたち。この子たちの笑顔、未来を曇らせてはいけない。決して、決して…。