早川寿美子 園長便り

3月に思うこと

2017年3月1日発行「おたより」第489号より

 以前、テレビを見ていたら、一列に並んで「がんばります」とか「しっかりやりたいと思います」と叫んでいる若い人たちに向かって、「そんなことはやる気のないやつらの言うことだ」と怒鳴っている声が聞こえてきた。そして、「そんなことを言うやつは出て行け!」という言葉が続いていた。それは家の者が見ていた番組だったのだが、どうやら職人さんの仕事を、希望者を選んで体験してもらうという番組らしい。その若い人たちの口をついて出てくる言葉を、よく聞く言葉だと思ったら、テレビに映し出される我が国の首相をはじめ政治家たち、また、記者会見などでの答弁でよく耳にする言葉だとふと思ったのである。
 そうか、「やる気のないやつの言うこと」かと妙に納得したような気がした。同時に年輩の職人さんの生き方、姿勢を感じて変化していく若い人の姿を追う番組らしいが、幼い頃からこのような実体験が少ない現実をも同時に映し出しているようで考えさせられたのである。
 3月は新たなスタートの時を迎える人も多いだろう。卒園、入学、入社…など卒園児たちも新しい「始まり」の一歩を進める子たちも多い。新しいことには夢と喜びだけではなく、困難も多い。そして、それがあるからこそ、喜びがあることを学んで欲しいと思う。
 今年の卒園児は、兄や姉がいる子が多く、兄弟そろっての卒園、卒業、入学なども多いことだろう。新しい歩みに向かって、一人一人の「しっかりした」歩みが支えられますよう、祈る3月である。

青空を見上げながら

2017年2月1日発行「おたより」第488号より

 「節分の豆まきは、玄関からご不浄まで家中にまくのよ」と話した時、きょとんとされたことがあったのはいつ頃だったろう。「お手洗い」「トイレ」のことと言い直さなければ伝わらない…。そのようなことが増えたような気がする。幼い頃、同居していた曾祖母は、お金は「穢(きたな)いもの」だから子どもが触るものではないと、一人で買い物はさせなかった。
 「不浄」という言葉があり、その反対の「清浄」とか、「清らかな存在」という価値観があった時代と現代についてふと考えた。保育園の事務所の中で、東京ではウォシュレットのトイレが普通になったことが話題になった時、ある有名な運動選手が練習試合のため、他国に遠征するのを断ったという話が出た。彼はウォシュレットがないという理由で断ったのだという。抗菌グッズがはやり、世界一清潔な国日本らしい話で、現代は本当にご不浄とは縁はなくなっているのかもしれない。しかし…と考える。最近テレビをつけると、やたらお金の話が声高に言われる。特にアメリカの大統領選の頃からは、このひとつの価値観に世界中が振り回されている気がする。
  「ご不浄」という言葉がなくなるということは、価値観が大きく変化してきているということではないかと思う。子どもたちがこの世界で人として幸せに生きていくために、どのような価値観を持てるかは重要なことであろう。クリスマスに上演したシルエット劇『針と糸』の中で、アフガニスタンの絵本『金の魚』を紹介した。それは金の価値ではなく、自然の教えに学ぶことの重要さについて述べられている。
 今ほどそのことが重要な意味を持つ時代はないのではないか、と青空を見上げながら思った。


新しい年は、日本にカジノができるの?

2017年1月16日発行「おたより」第487号より

 暮れにテレビやラジオでカジノのことを話していた。その話を聞きながら、私は保育学校時代の恩師である故大谷先生のことを思い出していた。我が園の理事長はその夫人である。
 私たちの学校は、わけあって親と暮らせない子どもたちの施設と同じ敷地の中にあった。大谷先生はそのホームの施設長をしておられ、我々は先生からケースワークを教えていただいていた。その授業の中であったか、別の先生であったか忘れてしまったが(当時、我が校には戦後の差し迫った子どもたちの救済の第一線で働き、学者であり実践家でもある先生方が多かったので、その方々のお話しだったかもしれない)、競馬か競輪かの団体から多額の寄付の話があった時、大谷先生はこのギャンブルのおかげで家庭を壊された子どもたちがこの施設には大勢いると、その話を断ったというエピソードを聞いたことがある。当時、いわゆる措置費も充分ではなく、施設の運営は大変な時代であり、勇気のある決断だったと感動した。
 先生は当時、数々の国際会議に出られ、親を失い飢えに苦しむ子どもたちのために、施設の運営を始め、さまざまな活動をされており、子どもたちを守り、民主的な教育をすることに奔走していた細身の先生の姿を思い出す。米兵との間に生まれ差別的な「アイノコ」と呼ばれていた黒い皮膚の少女のことを、少し涙ぐまれながら話されたこともあった。「朝早く、お豆腐屋さんをまわってね、オカラをいただいて来るの」と、当時保母をしていたミセス大谷は言っておられた。教会に行きたいので、日曜日休ませてくださいと言ったら、「お母さんに休みはないです」と言われたこともあったという。そのような時代でもあったのだ。私たちも、保母には365日、1日も休みはないと思っていた。皆が貧しくオカラを集めたり、少しでも食べられそうなものを工夫したりして、食事をつくり食べさせた。寄付でいただいた衣服なども手を加え、工夫して、一人一人に合わせて着せたりした、当時の保母たちの生活を思い出す。そのようなあり方は、今は非難されるかもしれないけれど…。
 しかしその中で、お金では得られない生活の豊かさや曲げてはならない生き方の基本のようなものを、子どもたちに伝えて来たのではなかったのかと思う。汗をかいて、自分や身近な人のために働くことが普通だった時代、背筋を伸ばして生きる大人たちが、まだ見えた時代でもあったろう。そのような思いを持つのは、自分が老いたということなのかしらと思いながら、子どもたちが子どもらしく、生き生きとした毎日を過ごせるような1年であることを祈ったのである。


まことの光

2016年12月1日発行「おたより」第486号より

 クリスマスに子どもたちに見てもらおうと一年間かけて、毎年、先生方と一緒にみんなでシルエット劇を作って上演しています。
 以前、この欄でも今年のシルエット劇のおはなし『針と糸』について書きました。今、危険な国、危険な集団としてイスラム圏の国々やタリバンの名前がよく聞かれますが、その紛争地であるアフガニスタンの物語です。昔、シルクロードを通ってさまざまな交流が行われていました。単に経済的な豊かさをもたらし、物資や情報を伝達するだけにとどまらず、それは文化交流の広がりでもあったのです。
 そのような文明の十字路とも言われるアフガニスタンが、民族間だけではなく、他国の争いにも巻き込まれていく歴史を知らされて、考えさせられた、アフガニスタン人の医師レシャード氏のおはなしをラジオで聞いてとても感動しました。この話にヒントを得て私が物語にしたものを、レシャードさんに見ていただき、このおはなしをシルエットにしたいことをお伝えしたところ、快諾していただきました。
 物語は戦争で失われた自分の村に、再び平和な生活をよみがえらせたいと願い、歩み始める一人の少年の物語です。シルエット劇になるには、いろいろな方々のお力をいただきました。特に声楽家の青木さん、今年もお願いした朗読の飯島さんには本当に感謝しています。
 まことの光が世に来た…という平和のメッセージ、クリスマスの意味を考える機会としてこのアフガニスタンの物語に心を寄せたいと思います。

再び、野菊のこと

2016年11月1日発行「おたより」第485号より

先日の収穫感謝祭の日に、みんなで作ったけんちん汁やおむすびを園児や職員たちといただいていた時、一緒のテーブルにいらした柳沢先生から「今月のおたよりに『野菊』の歌のことを書いておられましたね」と言われた。先生も秋になると、やはり懐かしく思われるそうで…。育った土地は違うけれど、秋の原風景を共有できたような気がしてうれしかった。
 柳沢先生は、自然のことをとてもよく知っておられる。水曜と金曜の週2回しか来られないけれど、子どもたちから「こま先生」と親しみを込めて呼ばれている。中学校の校長を定年退職されてからも、元体育の教師としての経験はいろいろなところで必要とされ、子どもたちの指導者として地域でも活動しておられたようであったが、ご縁があってわが園に来ていただいて15年になる。道具や樹木の管理、ゴミの管理、園庭の安全など実に細やかによく気づかれる。
 先生にねだってこまを作ってもらった園児も多く、卒園児たちは本名を覚えていなくても、「こま先生」のことを懐かしく思い出しているようである。私はいつも先生のこの存在感、時間や空間の見通しのよさに感心させられるのであるが、先生とお話ししていて、これは子ども時代の生活体験が大きく関わっていることを考えさせられた。
 日本中が貧しい時代の田舎にあって、大人に混じって相手の動きに合わせて働くことが要求される百姓の仕事は、子どもであっても自分の仕事に責任を意識させるものである。刈り入れの仕事は、村の人々皆が総出で力を合わせてやらなければならない自然相手の作業であり、共同体の中では子どももそれなりに村の一員であること、その責任をになっている自覚が、人としての気配りや優しさを生み出しているのかもしれない。感謝祭の食卓で、大人に混じって稲刈りをした柳沢先生の子ども時代のお話しを伺いながら考えさせられたことであった。
 「やさしい野菊 うすむらさきよ…」優しい歌ですね。野菊を保育園の玄関の近くに飾ってくださった方がいます。気がついた方はいらっしゃいますか?

野菊

2016年10月3日発行「おたより」第484号より

 先日、北海道に行った。夏は毎年行っているのだが、わずか1カ月の間に景色がこんなにも変わるものかと驚いてしまった。北海道の秋は、ほんのいっとき、あっという間に冬が訪れる。そんなことを思い出しながらススキと野菊に覆われた道を歩いてみる。
 幼い頃の懐かしい風景を思い出す。また、10数年前、おじの看病のために数カ月の間、札幌に通っていたころのことを思い出す。金曜の夜行列車「寝台列車北斗星」に乗り、土曜の朝に札幌へ着いておじの病院で過ごし、日曜の夜にまた東京へ戻るという生活をしていた(現在、北斗星はもうなく、新幹線北斗が走っている)。
 それは、夏から晩秋のころであったはずだが、病院からながめた秋の景色とは明らかに違う。札幌の町の中には整備された公園はたくさんあるが、このような自然はどこにもなかったのであろう。秋風にサワサワと揺れる白いススキの穂並みと野菊の群れの記憶はこの秋の空気であり、幼いころに遊びまわった近所の空き地が、私にとっての原風景なのだろうか。冬を迎える前の一番美しい季節に出会えたことがありがたく、心にしみた。同行の人たちには、どこまでも続く白いススキのうねりが印象的だったようだ。
 児童文学者の石森延男さんの詩で『野菊』という歌がある。秋になると自然と口ずさみたくなる歌だ。優しい歌である。彼の代表作、のちに映画にもなった『コタンの口笛』を読み返してみたくなった。

野菊

遠い山から吹いて来る
小寒い風にゆれながら
けだかく清くにおう花
きれいな野菊 うすむらさきよ

秋の日ざしをあびてとぶ
とんぼをかろく休ませて
しずかに咲いた野辺の花
やさしい野菊 うすむらさきよ

霧が降りてもまけないで
野原や山にむれて咲き
秋のなごりをおしむ花
あかるい野菊 うすむらさきよ

夏の日に

2016年9月1日発行「おたより」第483号より

 7月の夏まつりの日、卒園児のT君がやってきた。弟のH君は中学生になった時、制服を見せに来てくれたのに、彼は中学の頃からは来ていない。でもすぐにT君と分かったので、「T君はまんまるのマリみたいなお顔だったのに、随分スリムになったのね」と、ついうっかり言うと、「それはHの方でしょ。僕は違いますよ」と応じられた。でもすぐ「僕のこと覚えてます?」というので、小さい頃のエピソードや話し方の特徴など話すと、ちょっとまぶしそうな表情になってから、「ふうん、僕は僕の小さい頃のこと、何も覚えてないんですよ。でも毎年夏まつりのハガキが来るから、小さい頃のことを知りたくなって…」と言う。
 彼等兄弟が入園した頃、確かにいろいろお家で難しいことがあって、急に入園することになったのだったが、T君はまるでアナウンサーのようなしゃべり方をして、私たちを驚かせたものであった。「○○ですか?」「ハイ○○です」。という調子で、一風変わった子であったが、何につけても理解が早く、頭の良い子どもであった。
 せっかく来てくれた彼ともっと話したかった。夏まつりの日でなかったら、一緒にアルバムを開いていろいろお話をしたいと思ったけれど、ゆっくり話せず残念であった。また、ぜひ来てねと言うと、彼は「これからドーナツとクッキーを買って帰ります。また来ます。今度弟を連れて来ます」と、あくまでも幼い頃のように礼儀正しかった。受験のことでいろいろ悩んでいるとも言っていた。彼らのお母さんは、明るく賑やかなことが大好きで、それでいてどこか幼子のようなところのある素敵な方である。「お母さん、相変わらずお元気なのでしょうね」と言うと、彼はふっと、まるで父親のような表情を見せて笑った。「相変わらず飛んで歩いてます」という彼が急に大人びて頼もしく思え、なんだかとても嬉しく思ったのであった。
 毎年、夏には私もふるさと北海道に帰る。今年はたくさん仕事を持って行ったので、ほとんどどこにも行かれなかったが、数年前、札幌の私が生まれた場所に初めて行ったことがある。50年以上経っていたのによく立ち読みしていた本屋が一軒、それでも残っており、近所のことをいろいろ聞けたのは嬉しかった。「私が小学生の頃、立ち読みをいくらでもさせて下ったあのおばさんが懐かしい」と言うと、「その頃、いつも店番をやっていたのは私の祖母でしょう」と言われた。あの方は今どうしておられるかしら…。「子どもの頃の自分に会いたくなる時」、それはとても大切な時なのでしょうね。戦争が終わってそれほど経っていなかった頃の札幌、その本屋さんから月1回届く少女雑誌がどれほど楽しみだったことか。宝物のような少女時代の幸せな時を、私も本屋さんの店の中で噛みしめていたことを、ふと思い出したのである。
 T君は受験の前にまた来るだろうか。今度はゆっくり話を聞きたいものである。暑い夏ももう終わろうとしている。子どもたちはそれぞれにかけがえのない家族と一緒の楽しい夏の日を過ごしたことだろう。大人になった時、その一コマを幸せな時としてかみしめることがあるだろうか。それはその子のどのような時なのだろう…。真っ黒になった子どもたちの元気な顔を見ながら思うのである。


北海道にて

2016年8月1日発行「おたより」第482号より

 夏の行事で10泊の北海道学園合宿に来ている。何年も続いているしおん学園メンバーとのこの合宿の最中、夜中のニュースで障碍者施設での元職員による殺人事件が報道された。一報では何が起きたのかよくわからず、本当に起こったこととは思えなかった。その後、知的障碍者の施設で、しかも重度の方々が元職員によって襲われたというこの事件の詳細が次々に報じられ、障碍者の方々やその家族の方々から、そのショックの大きさに対して報道の在り方への配慮を訴える声も寄せられているとも伝えられた。なぜ施設内で、しかも「重度」と言われている人々が暮らす場所で「生きる意味のない人々」というような定義、妄想? 理由はわからないけれど、ある価値観による殺人が行われたのか。度重なるテロの報道と共に、大きな不安を社会全体が感じているのではないかと思う。
 次の日の朝、毎年来ているこの海辺の別荘地では、そのような報道も関係なく、穏やかな日常が繰り返されていることに、私自身少しの緊張がほぐれたような気がした。この地域の6軒くらいの定住者もお年寄りが多く、「にぎやかになりますね」と言って下さったり、自宅の畑で採れた野菜をくださったりして、朝からにぎやかにしている我々を、不審な目で見る人はいない。穏やかでゆったりした日々である。
 ふと若い頃に読んだ本の中の記事を思い出した。ダウン症の出生は、世界が不安定な時期に多くなる。彼らの人なつこさと底抜けの明るさが、世の中に必要とされる時がやってくるのだ、というような記事だったと思う。海辺での合宿の時、この記事をよく思い出す。
 最近、羊水検査でなく、血液検査で遺伝子診断ができるようになったが、その検査を受けた妊婦の9割近くがダウン症の出産を望まないという。しかし、ダウン症として出生した自身の意識調査によると、ほとんどの人が自分は幸せだと感じているという産科医の調査結果が出ている。これは、今までのしおん保育園の体験の中でも、実感、納得できるのである。
 昔の保育園児のお母さんで、兄弟2人共ダウン症の子を育てている方がおられる。第一子がダウン症で、第二子の妊娠の時、羊水検査を勧められたが、もし陽性だったら悩むだろうと思い、検査をしなかったと言われた。ご主人をなくされた現在、二人の兄弟は本当にお母さんを大切にして、彼女たち家族は幸せに暮らしている。
 子どもが幸福感を持てないと言われる日本にあって、それを持てるという調査が教えてくれるものを噛みしめたいと思う。

再び「のばら」について

2016年7月1日発行「おたより」第481号より

 先日、友人から昨年上演したシルエット劇『のばら』のDVDを送ってくれとの手紙が来ました。この作品を彼女は以前も買って下さったのですが、また1本、彼女が粘り強く続けておられる平和活動に使って下さるのだと思うと、本当にありがたく思います。
 彼女の手紙で、この作品に対する思いがけない指摘をして下さいました。それは小川未明の作品の中では敵対する兵士、若者と老人の2人が、互いに知り合うきっかけとなる、いわば平和の象徴としてののばらが、若い兵士の戦死の報と共に、その年枯れてしまったとあるのですが、私はあえて永遠に枯れない泉と、季節の巡りにしたがって花をつけ、存在し続ける命としてののばらに変えてシルエット劇にしたのです。彼女はこの脚色を戦争のむなしさや残酷さを、枯れない「泉」と枯れない「のばら」で伝えようという私の意志と感じてくださったようでした。私は自分がそこまで意図していたとは思えませんが、どうしても中途半端なあきらめとも取れるような終わり方にできなかったのだと思うのです。
 シベリアで抑留されていた日本兵の話の中で、極限状態におかれた時、すばらしい愛のある行動をとる一方で、たとえば人肉を食うというようなおぞましい行動を取ることもできる人間という存在について、まっすぐ見つめなければならないのではないか、という話を聞いたことがあります。その通りだと思います。その人間という存在の持つ両面に思いを深くすることなしに、愛と平和の問題は不毛なものになるのかもしれません。この友人は、戦後の日本は、戦争中、自国の軍隊の中で繰り返された暴力、また、一般市民の生活を脅かしたもの、人間性そのものへの暴力という事実に対する反省がどのように行われたのかと問いかけています。
 選挙が近づき、やたら勢いのいい言葉が飛び交っている今、ふと不安に思うのは私だけでしょうか。
 ふと「この子たちを地の塩世の光へ」という言葉を思い出しました。これは当時、さまざまなハンディがある子どもたちを守って来た一人の医師の言葉です。聖書の中の言葉ですが、同じく聖書の「光の中を歩め」という言葉と共に心に響きました。梅雨空の中、気分も重くなりがちですが、ふと光が差し込んだような感じがしました。今、我が家の庭ではいろいろなバラが咲いています。近所の方々が散歩中、ときどき眺めてくださっています。この平和な時がいつまでも続きますように。

船旅

2016年6月1日発行「おたより」第480号より

 昨年12月のおたよりで書かせていただいた「光のこうしん」というCDの作曲者加藤旭君のことを覚えてくださっている方はおられますか? しおんチャペルコンサートに出演してくださっている三谷さんが、主催されている音楽会で出会った加藤君の作品と演奏に感動し、音楽の持つとてつもなく大きな力を感じたこと。その上演にあたっての三谷氏、加藤君の2人の「やさしさ」が聴いていた者たちをどれだけ力づけてくれたか、今でもあの時、ホールで流した温かな涙の時間を思い出すのです。
6月にまた、彼の作品が演奏されるということで、本当に嬉しく楽しみにしていたのに、先日、次のメールが届きました。以下、そのままの文章で、ぜひ皆さまにも知っていただきたく、ここに載せたいと思います。人が生きること、子どもを育てることについて、美しいものに出会い、感動するということをもう一度、ご一緒に考えてみたくてご紹介します。幼い頃からたくさんの美しいものに出会うこと、わくわくした感動の経験をどれだけ豊かに体験することが重要かを、私も一保育者として常に思っていたことですが、このメールを見てひとりの親としても、人を豊かに強くするものは何かを改めて考えさせられました。

加藤旭さんを応援してくださる方へ大切なお知らせ
あらゆる可能性を信じて
加藤 希
 長男・旭を応援してくださっている皆様、いつもありがとうございます。
 懸命に病と闘ってきた息子ですが、2016年5月20日、16歳(高2)で旅立ちました。「船旅」という自作ピアノ曲を聴きながら、「じゃあ行くね」と自分で旅立ちを決めたような表情でした。
 2015年5月末のCD「光のこうしん」完成以降、皆様から多くのメッセージをいただき、旭は音楽を通して人とつながれる喜びを実感したようです。

 「『くじらぐも』と『にじ』が好きです」など好きな曲名を教えていただくと、「自分の名前なんて知られなくても、曲を口ずさんでもらえたら一番嬉 しい」と言いました。ご自身がご病気だという方や、ご家族がご病気だという方が「励まされた。旭君もがんばって」とのお言葉を寄せてくださると、「こうい うことのためにCDを作ったんだ」と喜びました。「今の旭君の曲も聴きたい」と言ってくださる方も多く、力をいただいた彼は、夏ごろから曲作りを再開しま した。
 旭にまた曲を作るほどの力が湧いてきたことは、家族にとって大きな驚きでした。彼の脳腫瘍は脳だけでなく脊髄にも広がっており、主治医の先生から 2015年4月の時点で、息子の命について「長くて3カ月」と言われていたのです。ところが告げられた期限のころから再び曲を作り始め、むしろ体調を上げ ていってくれました。
 2015年10月、ピアノ曲「A ray of light ~一筋の希望~」
 同11月、木管三重奏「湖のほとり」
 同12月、ピアノ曲「船旅」
 3曲を完成させ、新たにクラリネット五重奏や弦楽曲にも着手。視力を失い自力では立てない、そんなハンデを全く感じさせないほど、旭には音楽があふれていました。
 しかし2016年に入り、病状は急速に進行していきます。けいれん発作、激しい頭痛、誤嚥…。3月半ばから「いつ呼吸が止まってもおかしくない」 ぎりぎりの状態となりました。その頃2枚目のCD制作がスタート、体調の落ち着く瞬間を見計らって少しずつ少しずつ作業を重ねました。
 5月初旬、点滴をつなぎ、鼻から酸素を入れ、会話もままならない旭が、手の動きだけで「ぴ」と訴えました。「ぴ? もしかしてピアノを弾きたいの?」と尋ねると、なんとか頷きました。大急ぎでベッドを起こし、キーボードを運び、ひじの下にクッションを置きました。意識 も朦朧としているはずなのに、両手をゆっくりと鍵盤に乗せ、愛おしそうに鍵盤を押しました。もう上半身の自由は奪われ、手にほとんど力は入らない状態で す。指先に、体すべての力を気迫で集めているようでありながら、鍵盤に触れる手の動きはいつもの彼らしくエレガントに見えました。極限状態であっても音楽 を愛している旭の姿に、家族は圧倒され、言葉を失い、見守りました。
 5月18日は次作CD「光のみずうみ」の入稿日。旭は入稿を見届け、翌々日、自分でそのタイミングを決めたように旅立ちました。穏やかな表情と「船旅」のメロディーが心地よく残りました。
 今頃旭は自由に走り回り、以前のように手書きで音符を記している気がします。そして、旭を知ってくださった皆様、応援してくださった皆様の中で、 生き続けてくれるよう感じています。旭の音楽が種となり、どこかで思わぬ芽を出してくれるかな、と想像したりもします。皆様とのご縁から生まれる、あらゆ る可能性を信じたいと思っております。
 これまで支えていただき本当にありがとうございました。そして、これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
2016年5月
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心を掬い取り、伝える地点に同じ純度で立っている音楽。
未来への、旭君の伝言だ。 (池辺 晋一郎)
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6/5のアーツ室内オーケストラ銀座定期公演Ⅴ A ray of light ~ 一筋の希望 〜『夢に向かって』コンサートでは、「A ray of light」 「船旅」の初演を行います。

今、また食事について

2016年5月9日発行「おたより」第479号より

 先日、ひとりの卒園児のお父さんと話す機会があって、その子が栄養士か調理士を目指している、というお話をしてくださいました。彼女は中学校で学校を休みがちになり、おうちでも食事をあまりしなくなったということで、まるで別人のように痩せた彼女を見て、私は驚いたことがありました。その頃は思春期外来に行かれたりと、本人もご家族もいろいろ大変だというお話しは耳にしていたのですが、今はあれほどこだわっていた食の問題に取り組もうとしておられるのでしょうか。食事を作ることが好きになり、自分で工夫してダイエット食などを作っていたこともあったとのこと。今は家族のために、おいしい食事を作るのが楽しいようだとお父さんが言っておられて、私も嬉しく思いました。
 食をめぐる話題が毎日のようにテレビや雑誌をにぎわしており、何を食べれば健康に痩せるかなど、私も興味があってよく見ます。このような現状の中で、私はふと考えるのです。昔、何かで読んだか、あるいは聞いた話で、米国の衝動的で凶暴な事件を起こした非行少年の収容所で、一般的にその少年たちが多く食べていた、いわゆるファストフードが中心のグループと、野菜食中心のベジタリアンの食事のグループとの比較をした研究のことです。ベジタリアンの食事を与えられたグループは2~3カ月後には落ち着きが出て、激高するような衝動的な傾向が少なくなり、穏やかで安定して、不安感情も少なくなってきたというものでした。もう一つのグループはそれほどの変化はなかったということで、食の変化は情緒傾向に大きな変化をもたらしたのはあきらかで、これが長期的になれば食の影響は計り知れないものがあるのではないか、ということを考えたのでした。
 ベジタリアンが良いか悪いかより、自然の中で長い間その民族が食べてきた食習慣が大きく変わるということは、その人の感情や生き方にさえも影響を与えかねないということでしょうか。
 私は卒園児である彼女が、自分のつらい体験を通して、食の大切さに気づき行動しようとしているように思いました。彼女のしっかりした歩みを心強く思っています。

針と糸

2016年4月15日発行「おたより」第478号より

 今年も新1年生が、ランドセル姿を見せに来てくれた。入学式のあと、お家の方々と一緒にちょっと神妙な顔で保育園にやって来た。新品のランドセル姿にドレスやスーツ、胸にはコサージュなど飾って、皆きちんと挨拶ができる立派な1年生になっている…と思ったら、早々に誰かがランドセルを降ろし、次々に靴を脱ぎ、新年長さんたちの姿を見つけると玄関からクラスの方へ走って行った。船のコーナー、果ては2階まで、いつものように元気よく探検をして歩く。お母さん方に呼ばれて、皆で仲良くカメラにおさまって、遊び足りない顔でお家に帰っていった。いつもの4月の光景である。学校という新しい環境にうまくやっていけるだろうか、勉強が楽しいと思えるといいな、友だちとよい出会いができるだろうかなどと、一人ひとりの子どもの顔を思い浮かべながら祈る4月である。  
保育園も新入園の子どもたちが、少しずつ落ち着きを見せ始めて来た。新緑の美しさに見とれながら、まだ散った桜の花びらが土の上、その名残をとどめているのを見ると、今年も桜をゆっくり眺める余裕がなかったとふと思ったりする。毎年のことではあるが…。
 とはいえ、今年もクリスマスに上演するシルエット製作準備がもう始まっている。新人職員も入っての1回目は、ビデオで過去の製作場面を見たり、人形の作り方や背景の作り方など、もう一度見直していく作業が始められた。今年は『針と糸』という話をなんとかシルエットにしようと思っている。アフガニスタン出身の医師レシャードさんの話を、昨年「ラジオ深夜便」で聞いて感動し、何とかこの話をシルエットに出来ないかと思い、レシャードさんに直接手紙を書いた。すぐにお返事がきて、快諾して下さり、本当にありがたく大喜びで脚本作りを始めたのだが、学者であり詩人でもあるレシャードさんの父上が作られたこの詩は、そのままではシルエット劇にするには難しく、アフガニスタンの民話を参考にしながら、何とか劇としての展開を模索しているところである。  レシャードさんが送ってくださった本にあるその詩は、要約すると、昔からシルクロードでは広い地域間での交流が盛んで、それぞれの文化、技術などが伝達されていた。ある人が王宮を訪れ、自分の地域で作られているはさみを献上した。しかし王はその好意への謝意と共に、はさみの価値を認めながらも土産として受け取れないと言い、はさみは物を切るものであり、裂くものであり、それは人と人の信頼と絆さえも切る可能性がある。我々ははさみよりも心をつなぎ合わせる針と糸が欲しい、というものである。
 レシャードさんの父上との思い出の中に、高等学校を卒業する頃の話があった。父上から2人で川にでかけようと誘われた時の話である。共に川で過ごした後、父上から「君は今まで私の子どもで、君をしっかり育てるために私は厳しいことも強制したが、君も大人になった。今後は私の友人として付き合ってもらいたい」と言われたというのである。親子のあり方、父と息子、人が育つということについて、いろいろ考えさせられたことであった。  何とか『針と糸』の物語をシルエットにしなければ、と改めて思った次第である。

おひなさまの思い出

2016年3月1日発行「おたより」第477号より

 ひなまつりになると思い出すことがあります。小学校1年のころ、東京から転入してきたばかりの道子ちゃんと仲良しになり、彼女の家のひなまつりに何人かが招かれました。東京から来たあか抜けた感じの彼女は一人っ子で、どことなく札幌生まれの子とは違って、言葉も話し方も優しく静か。おばあちゃん育ちで、いわゆる「うちべんけい」の私には、ホッとする何かがあったようです。彼女が東京に行ったあとも、彼女とは長い間親しくしていました。
 さて、初めて行った彼女の家でびっくりしたのは、赤いじゅうたんの「子ども部屋」。しかも、彼女の親戚の画家が描いたという「少女」の油絵が飾られていたことでした。やがて応接間に通された私たち女の子2~3人に、優しそうなご両親が、大人に対するように丁寧なあいさつをされ、部屋を出て行かれました。女中さんが運んできた食事やケーキをいただいたあと、子どもたちでおしゃべりしながら、残りのジュースをいただいたりしていました。皆で暖かな部屋でいただくジュースの味が(冬の北海道では珍しい)、初体験でおいしく感動ものでした。私があまり喜ぶので、道子ちゃんは、台所からもう1本あったわと言って持ってきてくれたぶどうジュースがおいしくて、ほかの子は変な味と言って飲まず、私はおいしく全部飲んでしまって、会はお開きになりました。その時飾ってあったはずのおひなさまのことは、覚えていません。
 自宅に帰ってすぐ寝てしまった私は、朝、母と祖母からとても叱られました。電話がなかった時代、寒いのに道子ちゃんのお母さんが「すみちゃん、大丈夫ですか」と尋ねてこられたそうで、その時私が一人で飲んだのは、当時珍しいワインだったのです。家で山ぶどうを摘んではカメに潰して入れて作ったジュースより、香りも味もおいしいと思って飲んでしまったあの日のことを、ときどき思い出します。あの時、まるで大人に対するように私たちに接してくださったご両親、個室どころか、肩寄せあって一部屋で家族全員が過ごすような家もあった時代のすてきな思い出です。
 小学生を子ども扱いせず、一人の人として私たちにも接してくれたご両親、一人娘の道子ちゃんに対しても、丁寧な言葉と、べたべた甘やかした感じはなく好ましく思えたこと、シンプルだけどすべてに細かい神経が行き届いている家具、調度品などと共に、この日のことをおひなさまの一番古いエピソードとして思い出すのです。

音楽会

2016年2月1日発行「おたより」第476号より

 先日、チャペルコンサートで何度か演奏して下さっているピアニストで、現在しおんピアノ教室で講師もして下さっている林先生から、三宮さんのお話が出てびっくりしました。林先生のお母様もピアニストで、三宮さんはそのお弟子さんだったとのこと。白杖を手に軽やかに歩き、「階段なんかも駆け上がるようにして上っていく」ような女性だそうです。三宮さんの著書『鳥が教えてくれた空』を読んだのは、もう10年以上も前のことです。それでも鮮やかにいろいろなフレーズを覚えているほど、私にとって印象深い本でした。三宮さんの感性を通して、今まで気づかなかった世界が、手に取って見えるような気がしたのを覚えています。
急に懐かしくなって、彼女はその後、何か書いているのだろうかと調べたら、何とたくさんありました。絵本まであったのには、びっくりしました。『人生を幸福で満たす20の方法』という新書本に、林先生のお母様のことが書かれていて、心を打たれました。
 それは、彼女が子どものころから20年ほど師事していたピアノの恩師(つまり林先生の母上)が亡くなった通夜の席で、思い出話をしていた時のことです。音楽家として活躍している陽子ちゃんが、「先生はひたすら音楽を追求する楽しみを教えてくださった」「誰かさんより上手になりたいとか、有名になりたいとか、そういうことを考えなくても、音楽という世界に素直に向かっていればいいのよって言ってくださったのよね。私、その言葉でどんなに励まされたか分からないわ」と言ったので、びっくりしたという。音楽家でない三宮さんにも、先生はいつも同じように言っておられたのである。
 陽子ちゃんがプロデビューしてからも、生徒時代と変わらないメッセージを送り続け、その励ましで「安心して勉強を続けられた」という陽子ちゃんの言葉に、三宮さんは同感したといいます。「感謝よね。先生にはピアノ以外にいっぱい教えていただいたと思うわ」という言葉には、うなずくしかありませんでした。「神様はね、気がつくといいことをたくさんして下さっているのよ。だから大丈夫よ。じーっとお勉強していればそれでいいのよ」。先生のこの言葉を改めて実感したといいます。
 林先生にお母様のこと、亡くなられたころのことも何度か伺っていたのに…。ぜひ、生前お目にかかりたかったと思いました。この「陽子ちゃん」も、思えばしおんチャペルコンサートで随分前に演奏してくださったお一人でした。
さて、我が園のチャペルコンサートも、昨年12月の「講師混同(我が園の講師たちによる)コンサート」200回を迎えました。本当にいろいろな方々に力になっていただきながら続けてこられたと思います。
2月には特別企画として、オーケストラの演奏会が実現できることになりました。これもチャペルコンサートでピアニストとして協力して下さっている三谷さんのおかげです。
 三谷さんも、音楽を通して人生を深く生きる力を子どもたちに育てたい、と思っている方です。「陽子ちゃんが言うように、先生は静かに感謝して生きることの尊さを、音楽を通じて教えてくださったと思う…」という三宮さんの言葉に、私も深く共感します。特別企画は今月の13日です。ぜひ皆で楽しみましょう。

戦後70年におもう

2016年1月15日発行「おたより」第475号より

 新しい年、子どもたちは元気に登園して、口々にお餅を食べたこと、おうちの方々と楽しく過ごしたことなど話してくれました。保育園や学園のクリスマスには、昔の職員や昔の卒園児も尋ねてくれて、本当によい時を過ごしました。
 さて、新しい年を迎え、年賀状も整理した頃に、年賀状の代わりにと古い友人から手紙がきました。「戦後70年の昨年、子どもの頃のことを思い出しました」ということで、北海道の田舎での慎ましくても温かな生活の話がつづられた後、ある日の思い出をつづった文が同封されていました。ぜひ皆様にも紹介したく、この原稿を寄稿していただき、誌面に載せることを了解いただいて、園だよりに載せています。
 彼女は神学校の寮で同室でした。私は途中退学をしてしまいましたが、彼女は卒業後、牧師として教会で仕事をしていました。やがて思うところがあって、教会を離れた後、差別や平和についてのさまざまな活動をしておられたようでした。偶然、保育園からあまり遠くないところに越されたと聞いて、ぜひ手伝って欲しいと頼んで、はこぶね館でカウンセラーとしてしばらく働いてくださっていました。しかし、健康が許さず数年前に辞めることになったのですが、私としては同郷ということもあっていろいろ共感することも多く、その後もお付き合いをしていただいています。
足が不自由になった理由について「戦争がなかったら私はこうならなかったと思うの」と言われた時のことを今も思い出します。戦争で医者もいない北海道のいなかでは、事故の治療も充分ではなかったのです。そして、戦死の訃報と共に、父の遺骨と言われる箱に入っていたのは、戦地に持っていった聖書だったそうです。
 「戦争さえなかったら」、神学校の寮の部屋でポツリと言った彼女の言葉を忘れられることはできませんでした。不自由な足で信念を持ってしっかり生きてこられている彼女を尊敬の念で見ていた私は、子育て支援センターや学園のためにもカウンセラーとして、もっと活躍して欲しいと願っていましたが、外出も不自由になった今、残念でなりません(それにしても戦争がなかったらもっと活躍されていただろうに)。不自由な身体で彼女が平和についてさまざまな活動をしてこられたこと、忘れてはいけないと思います。
 どうか平和が続きますようにと祈りつつ、新しい年を迎えました。

光の行進

2015年12月2日発行「おたより」第474号より

 先日、ピアニストの三谷温氏からコンサートのご案内をいただき、私の好きなヴァイオリニストの出演やよく知られている指揮者の名前もあったので出かけました。本当にすべてのプログラムが感動的ですばらしかったのですが、一人の少年の作品が演奏されたことで、開場全体が光に満たされたような温かく特別なコンサートになったような気がしました。その加藤少年のCD『光のこうしん』は、7月にわが園で開催された三谷氏のチャペルコンサートの時にも紹介され、楽譜も販売されておりました。指揮者の大友氏のお話によれば、加藤少年が小学生のころに大友氏と関わりがあり、また三谷氏と大友氏が親しい関係でもあったことが、このコンサートに結びついたようでした。本当に美しいものが与えてくれる大きな力、本当の強さを改めて思います。幼い頃からたくさんの美しいものに出会い感動することが、どれだけ生きる上で大きな力になれることかを改めて実感した音楽会でした。
 この少年、加藤旭君が死と向かい合うようなつらい体験をしながらも、支えてくださる身近な人々に感謝をし、自分も何か出来ないかと考えたこと、恩師である三谷氏がそれを聞いてすぐにそれに応えられたこと、2人の「優しさ」がこのすばらしいコンサートになったことに改めて感動したのでした。当日は旭君も車椅子で客席に来て、体調が心配されながらも最後まで音楽会を楽しむことができました。私自身もその場に居合わせて感動を共にできたことに、感謝しています。最後にCDジャケットに掲載されたメッセージの一節をお伝えしたいと思います。

 僕が小さい頃に作った曲を、「CDにしたら」と計画してくれたのは妹の息吹です。中学3年冬から高校1年春にかけての、脳腫瘍放射線治療入院時でした。
 頭痛やだるさを抱えながら病院で一人過ごす時間はとにかくきつく、ドアが開いて誰かが入って来てくれるのを「今か、今か」と待っていました。家族や友達、先生が会いにきてくれた時の嬉しさは格別で、「自分も人を喜ばせたい、何かの役に立ちたい」と思いました。そこで妹が「お兄ちゃんは小さい頃作曲していたから、それを生かせばいい」と考えてくれました。(中略)
 今は手術の後遺症で足が思うようには動かず、目がよく見えなくなっていますが、これまでの作曲作品(約480曲)と脳腫瘍の治療や入院の経験を生かしていきたいと思います。(中略)
 5歳から10歳までに書いた曲です。このCDがより多くの人の励ましとなること、また、今闘病中の方々の命が助かることを祈っています。加藤旭(16歳)


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